インテグラル・スピリチュアリティ<4>
<3>よりつづく
「インテグラル・スピリチュアリティ」<4>
ケン・ウィルバー /松永太郎 春秋社 2008年02月サイズ: 単行本 ページ数: 469p
なにはともあれ、この本を読み進めると決めた以上、なんらかの手がかりをつかみつつ、少しづつ前に進んでいかなくてはならない。そこで、パラパラと全体をめくってみる。この本、近場の図書館には入っていない。ちょっと遠目の大学には入っているが、貸出中のことも多く、自由にならない。仕方ない(笑)ので、自分で購入(当たり前なのだが)。
だから、ゆっくり読めるという安心感から、次々と後回しになってきた経緯がある。ここはすこし気を入れて読もうと思うのだが、そのつど挫折。私向きではないことは十分して知っているのだが、たとえば玉川信明の「和尚(ラジニーシ)の超宗教的世界 トランスパーソナル心理学との相対関係」などという、遺作となる涙ぐましい研究などを見るにつけても、この辺、なんとかしなくちゃな、と何度も思う。
まずパラパラとめくったところの違和感から。
1)意識のレベルを虹色に当てはめているが、それを8色に分解している。日本では「七色の虹」と言うくらいだから、せめて7にとどめてくれればよかったのだが、8色に分解したところが、どうも気に食わない。そもそも、虹は赤と青の2色かもしれないし、黄色をいれてせいぜい3色かもしれない。あるいは12色、21色にだって分解できる。そもそも虹は虹色なのだ、虹は虹色だから虹なのだ。それを何で8つにわけてしまうのかなぁ、という疑問がある
2)色に意味を与えてしまうのはどうか、と思う。色彩心理でいうところの色の意味、田中公明「曼荼羅グラフィックス」、あるいは一連のオーラソーマなどとの関連が気になるところ。敢えてこの辺は「インテグラル」する必要はなかろうが、あまりにさまざまなシンボリズムやシステムが乱立すると、混乱する。この辺の多用乱用は控えめに願いたい。
3)私、あなた、私たち、それ、などの人称の問題をテーマとする部分があるが、それもちょっと込み入りすぎている。当ブログではとりあえず「私」という人称に固定することによって、話題の拡散を防ぐことにする。
余談だが、池田晶子の遺作が「私とは何か」、「魂とは何か」、「死とは何か」 、という三部作として出版された。内容はともかくとして、このタイトルにいささか疑問を持った当ブログでは、あえて「私は誰か」、「魂はどこにあるか」、「いかに死ぬか」、という新たなる問いとして問いなおしてみることを提唱している。
「何か」what is という問いかけには限界を感じるし、深みがどこかでとどめを刺されてしまう。この三つに物事を集約するのは賛成だが、問いそのものが正しくないと、解そのものがまったく違ったものになる。
さて、この「インテグラル・スピリチュアリティ」のパラパラ印象のなかのポジティブな部分はというと、ないわけでもない。
4)IOSとやらの次元で、「実践」の中でなにごとかを活用させようとしていること。
5)とにかく「スピリチュアリティ」という言葉自体にこだわりを持って擁護しようとしていること。
6)新しい翻訳者を得て、どのような展開をするか、という期待。
7)巻末の「付録」や「訳者解説」は、ケン・ウィルバーを読み進めるのに役立つし、新たなる読書への足がかりにもなる。
あらたなるマトリックスを展開しようとするウィルバーのもくろみを料理するために、当ブログなりにおっとり刀でマナ板を用意しなくてはならない。よりシンプルで、より実用的である必要がある。そのためにも、釣り上げようとする魚がどれほどの大きさなのか、暴れるのか、マナ板の上の鯉、みたいに静かにしてくれるのか。
包丁はどうするのか。刺身でいくのか、煮るのか、焼くのか、どこが食えなくて、どこがおいしいのか。全部食えるのか、食べるところはほとんどないのか。味付けは? 盛り付けは? 朝飯用? 昼飯用? それともディナーのメインデッュ? 宴会用、まかない用、おつまみ風?
まぁ、そんなところからでも、なんとか、この食えそうで食えない、「外来種」を研究してみようと思う。食えなさそうで、意外と食えるかも・・・・。
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コメント
メンズアロマセラピーのところにも、新たにコメントを入れておきました。
投稿: monju | 2010/02/23 22:52
3と7は基本中の基本、という感じがしますね。ここから神聖幾何学への飛翔へと、繋がっていけるだろうか。
http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200705200000/
投稿: Bhavesh | 2010/02/23 19:45
三位一体の方にもコメントを入れておきました。
投稿: monju | 2010/02/23 16:11
Vol.1へのアクセスがしんどいので、飛べるようにこちらにコピペしておきます。
http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200612250002/
投稿: monju | 2010/02/23 15:56
★monju
>いつか中沢新一の「三位一体」的な発想法と、ウィルバーの「四位一体」的な発想法とを比べて論じてみたいと思っている
なるほど、これは楽しみですね。中沢については、また再読をはじめる予定なので、参考にさせてもらいます。http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200709010001/
Vol,1への書き込みどうもありがとう。レスつけておきました。
投稿: Bhavesh | 2010/02/23 15:04
★チダ
やっぱりそうですか。読みやすい本ではないことは確かだよね。付録あたりは確かに読みやすいけど、そうすると、この本の価値は逆に下がってしまう感じがする。
このわかりにくいところが、通のお好みなのだろうなぁ。
苦かったり、毒があったりするところがおいしいのかも。すなおじゃないな、みんな。
投稿: Bhavesh | 2010/02/23 14:59
ところでバベッシュ、昨日、古い日記にコメントを入れました。あびの「魂の螺旋ダンス」について書かれていた箇所にね。
投稿: monju | 2010/02/23 11:13
いつか中沢新一の「三位一体」的な発想法と、ウィルバーの「四位一体」的な発想法とを比べて論じてみたいと思っているのだけれど、仏教の場合にも3を機軸とするものと、4を機軸とするものがあって興味深いです。
四諦八正道は4の原理、三宝印や三尊形式は、3の仕組み。
ウィルバーの視座は、瞑想的な境地の深まりが必ずしもそのまま社会的事象への適切な判断へと直結するものではないことを指摘する上では画期的な視点を提供していると思います。
投稿: monju | 2010/02/23 11:11
この感想を読んで、笑ってしまった(ゴメン)。いや、親近感が沸いてきた。ぼくも去年長い時間をかけて図書館から何度か借りて読んだよ。途中まで読んで、わからずに付録を先に読むことにした。それから本文に戻ったけど、やっぱり、難解だね。
内面と外面、瞑想(Meditation)と世間(Marketplace)のほうがわかりやすいかな → ぼく的には^^;
まっ、四象限じゃなくて「ビッグ・スリー」なら、「仏法僧」に対応させて理解できなくもなかったけどね。
投稿: チダ | 2010/02/23 10:56