村上春樹はくせになる
「村上春樹はくせになる」
清水良典 朝日新書 2006/10 朝日新聞出版 新書 236p
Vol.2 958 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
村上春樹の作品群において1995年がひとつの区切りになるだろう、とは大方予想するところで、ランダムに読み進めてきた当ブログにおいても、割と早い時期にそのことに気がついていた。しかし、この本においては1995年とは、阪神淡路大震災と麻原集団事件の二つであると総括してしまっていることには、すこし不満を持つ。それに加えて、ウィンドウズ95の発売、つまり、ネット社会の到来、という大きなファクターを付け加えてほしいと思う。
1995年を区切りとして、前期と後期に分けるなら、清水は、前期の末期症状を「国境の南、国境の西」に現れているとする。最初「ねじまき鳥クロニカル」の出だしとして書かれたこの小説は、村上が夫人に見せたところ、短くしてすっきりしたほうがいいと言われ、切り捨てて部分であった。のちにその部分が膨れて、ひとつの作品になったのだ。
「ノルウェイの森」が「売れすぎて」日本の雑踏を離れた村上であったが、アメリカの地においても、必ずしも、筆が順調に進んでいたわけではなかったようだ。というのも、村上は常に毎回何事かの新しい試みをし続けている作家だからだ。
「こっち側とあっち側」という表現は、村上春樹の小説を読む上で、ほとんど必須のキーワードである。ほとんどどの作品を読んでも、「こっち側とあっち側」の二つの世界、そしてその中間にある奇妙な世界が登場する。
それが、ここでは小説論として語られているところが面白い。
小説は虚構の世界であり「この世のものではない」。だから「生きた小説」は、「こっち側とあっち側」をつなぐ「門」として機能しなければならない。文章を巧みに書けるかどうかという問題はたいしたことではない。書かれた作品が「門」であるかどうか、あるいは「門」をあっち側」まで通じさせることができるかできないか、それが重要な問題である。p40
この本においては、パラレルワールドという用語は使われていない。だから、一様にここで同じ概念で括ってしまうことはできないだろうが、自分たちがとどまっているリアルな世界を「こっち側」と呼び、小説などが展開されている世界が「あっち側」なのだ、という理解、あるいは設定には、ちょっと待った、をかけたい。
たとえば亀山郁夫は「カラマーゾフの兄弟」の解読にあたって、読者に対し、物語層、自伝層、象徴層、の三つの構造として読むことを進めている。この読み方が村上春樹にずばり当てはまるかどうかはともかくとして、私は、村上春樹にパラレルワールドがあるとすれば、鏡をおいて、その鏡面を境とした「こっち側」と「あっち側」というような並行世界をイメージするのではなく、馬車と馬と御者、のような、みっつのレベルの違い、というようなパラレルワールドを想像するのである。
この本において、清水はユング心理学のなかからペルソナと影という象徴を幾度か引用してくる。たしかに小説の中では、勿体づけられたような形で、表現されている部分もあるが、それは読者の裁量に任されてはいるが、決して、そう解釈しなければならないものでもなく、ましてや、全うな正当性のある解釈でもないように思う。
結論から言えば、この本の主張する1995年区切り説には賛成するが、その区切りの理由と、突っ込み方には、一新参読者として、ちょっと納得のいかないところがある。もっと恣意的に、意図的に、作者のもともとの意志をさえ乗り越えて、もっとぶった切るくらいの強引な斬りこみがあってもいいのではないか。
この本は、第一部が1995年の「アンダーグランド」から始まり「海辺のカフカ」にまで行き、第二部では「風の歌を聴け」からはじまって「ねじまき鳥クロニクル」第三部にたどりつく。
もともと作者は第1・2部で謎を作っても答えを用意していなかった。あとになってからそれに答えてみるということは、隠していた解答を特権的に出したということではなく、読者と同じ立場で自分の作品に対抗し挑戦してみたということであり、自分の作品をいったん離れた場所に立って咀嚼しなおしたということである。
いいかえると第3部で作者は、それまでの村上春樹的世界に向かって予定外のアクションを起こしたことになる。じっさい読んでみると、第1・2部と第3部のあいだには明らかに大きな変動がある。たんなる「謎」編と「答え」編ではなく、そこには作者の創作の姿勢に生じた重大な転換が含まれているのだ。p188
私は、この部分を読んだだけでも、この本を開いた価値があったと思う。たしかにこの三部作の小説は、2010年の今頃になっておっとり刀で読み始めた私のような読者には最初から予定通りのように思えてしまうが、実はそうではなかったのである。そして、その「謎解き」は、なにかの推理小説のような「正しい解」があるわけではなく、苦しみの中から生み出された、ひとつのサンプルに過ぎないのだ。
だとしたら、なおのこと思う。やはり、第三部において、作者は「その」テーマを解き切れていない。あるいは、その解では、一読者としての私は全然満足していない。そして、村上春樹自身も決して満足しきれていないからこそ、90年代後半、そして21世紀の作品群があるのだろう。
清水の解説は、可もなく不可もなく、という感じがする。重要なポイントを教えてくれていつつ、さらにもっと重要なポイントを、「わざ」と外しているかのようだ。だからこそ、私はその解説に食ってかかりたくなるし、そのためにも、もうすこし村上春樹を読みこまなければならない、と決意する。
なるほど、村上春樹はくせになる。
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