禅宣言 <9>
<8>からつづく
「禅宣言」<9>
OSHO /スワミ・アドヴァイト・パルヴァ 1998/03 市民出版社 単行本 541p
★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆
「意識をめぐる読書ブログ」としての当ブログもすこしづつターゲットを絞りつつある。あるいは、絞らないと前に進めなくなっているといえる。さて、どう絞り込んでいくのか。一言でいえば、当ブログはOSHO-ZENに向かう、ということにつきる。しかしながら、そこにむかうには、読書ブログと、OSHO-ZENはどう繋がってくるのか、という極めてデリケートなバランス感覚が問われることになる。
そして本当のことを言えば、そういった意味において、この日本語のOsho「禅宣言」は、英語版「Zen Manifest」と微妙にニュアンスが違っていることを以前より気にしている。正直、違うだろう、と言いたいことが2・3ある。ただ、それは、この本とか、この本をつくった人々へのなにかのわだかまり、というより、むしろ、OSHO-ZENは、本では表現しきれない、というニュアンスのほうが強い。
ウィトゲンシュタインは、「言いえないことは言うべきではない。それについては口をつぐむべきだ」という。まず、確認すべきことは、言いえないことが存在するということだ。そして言いえることもあるということだ。だから、言いえる範囲でのことは言われる必要がある。どこかに境界はあるはずである。だが、ある領域から言葉がはいれない世界へと移行していく、ということは、あらかじめ確認しておく必要がある。
OSHO-ZENは、その言いえない領域へとたどる道筋だ。だから、どこかで言葉は途絶える。しかし、途絶えるところまでは、限りなく十分に語られなければならない。そのためのギリギリの領域で語られているのが、この本「禅宣言」であろう。あるいは、英語版「Zen Manifest」のほうが、より生にちかいだろう。そして、オーディオテープやビディオのほうが、さらに生に迫っているだろう。しかし、もちろん、そんなことでは十分ではない。
まぁ、しかし、ターゲットは一気に絞り切れるものではない。フォーカシングはそれなりのプロセスの中でやっていこうではないか。
先日フリッチョフ・カプラについてお話がありましたが、超個(トランスパーソナル)心理学についてもお話いただけないでしょうか--とくにスペクトラム心理学の創始者と言われる、ケン・ウィルバーの業績と瞑想について。
どうしてそういった人々はここに来ないのでしょう。すっかり大家になってしまって、外に出られないのでしょうか。あなたのビジョンとその実際的な成果が、障害となっているのでしょうか。
まず第一に理解すべきは、私は心理学は扱っていないということだ。心理学はマインドに結び付いたままだ----それはマインドの科学だ。そして私の仕事というのは、あなたをマインドの外に連れ出すことだ。だからこうした人々は、きっと私のことを敵のように思うだろう。彼らが探っているのは、マインドの機能の仕方---それが個人のもの(パーソナル)であろうと、人と人の間のもの(インターパーソナル)であろうと---であり、その条件付けとは何か、そしてそうした条件づけをどうやって新しい条件づけによって置き換えるか、といったことだ。彼らの仕事は、それがインターパーソナル心理学と呼ばれようがスペクトラム心理学と呼ばれようが、マインドに閉じ込められたままだ。そして私の世界、禅の世界は、ノー・マインドの世界だ。
マインドが何世紀も抱えてきたごみくずを相手にしても、しかたない。それに巻き込まれてしまったら、それをどこまで掘り続けていっても、見つかるのはガラクタばかりだ。一思いにそこから飛び出したほうがいい---それはあなたではない。世代から世代に伝わる条件づけが、そっくりそこにある。様々な観念がみんなあなたのところまでやって来て、日毎に厚くなっていく。時間が経つにつれて、あなたのマインドは厚くなり、瞑想するのは難しくなる。
こうした人々は、瞑想に全然かかわっていない。だからここに来るはずもない。第2に、自分たちは答えを見つけたと思っている。当然、答えを見つけたと思っている人は、もうほかの場所に真理を探し続けたりせず、自分自身の想像の中にとどまる。
マインドというものは、心像や、思考や、感情や、気分以上のものではけっしてない。マインドはあなたの本性ではなく、社会によってあなたの無垢の上に押し付けられたものだ。
こうした人々は、ここに来たら当惑するだろう。なぜなら自分たちのしてきたことすべて、集めてきたものすべてを、私たちは投げ捨てているからだ。
もしやって来たら、もっと集めるものが山ほどあるだろう---毎晩たいへんなごみくずが捨てられる。それを集めて分析を楽しめばいい。
完全に精神分析された人間は、この世にひとりもいない。過去に向かうと、その深さはたいへんだ。10年、15年と人々は精神分析を受け、そしてずっとしゃべり続ける---いろいろ新しい夢や、新しい考えが現れ、それがどんどん続いていく。その精神分析家に飽き飽きしたら、別の精神分析医に変え、またもや同じ物語を別の名前で繰り返す。
しかし精神分析家も気づいていないのだが、あなたの実在は、あなたの小さなマインドをはるかに超えるものだ。
科学は物質の中に閉じ込められている。
心理学はマインドの中に閉じ込められている。
瞑想とは、「物質」を扱う生理学を超え、「マインド」を扱う心理学を超え、生と意識の源泉をみつけようとする。
ここでの仕事はまったく違っている。違うばかりではなく、いろんな学派のいわゆる心理学者たちの仕事すべてを無意味にする。そういう仕事は不毛な作業だ。OSHO「禅宣言」p458
心理学やトランスパーソナルという概念は極めて魅力的で、ああ、ここで、いいんではないか、と私たちにひとときの安心感を与えることがある。
しかしOSHO-ZENは、そこを断つ。
そこは到達点ではない。
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