和尚(ラジニーシ)の超宗教的世界―トランスパーソナル心理学との相対関係<18>
<17>からつづく 
「和尚(ラジニーシ)の超宗教的世界」 トランスパーソナル心理学との相対関係 <18>
玉川 信明 (著) 2001/04 社会評論社 単行本 283p
★★☆☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆
そうか、こうして振り返ってみると、それでも十分ではないにせよ、 この本をすでに17回も書いていたのだった。今回18回目。なぜにこれほどこの本を思いだすのであろうか。過去に書いたことまだ読みなおす気分にはならないが、それでもやっぱり、まだ自分の中で割り切れない部分が残っていたのだろう。
だが、今回「インテグラル・スピリチュアリティ」を読みこむ過程で、ケン・ウィルバー、吉福伸逸、トランスパーソナル、心理学、などのつながりを再読するにつれて、次第に溶けていくものが、いくつもあったことを感じている。そして、いわゆる「ブッタ達の心理学」からの離陸を視野に、次第に、この本ともお別れできるのではないか、と思うようになってきた。その辺、箇条書きにしておく。
1)そもそも、トランスパーソナルという概念自体が瓦解し始めており、すでに脱トランスパーソナル状況が生れていること。日本においては、教育学とか、病理学としては、トランスパーソナルの伝統が息づいており、今後も実践の場で論議されていくだろうが、Oshoそのものとは、大きく乖離ができていること。
2)トランスパーソナルというマナ板の上で、Oshoを躍らせようという玉川の試みは2001年の段階ではまだ新鮮味があったかもしれないが、2010年という時代背景を考えた場合、すでにその必要性も重要性も失われているのではないか。
3)そもそも、玉川のOsho理解というものが、Oshoの講話が出版されて、さらにそれが日本語に翻訳され出版された範囲のものを中心に、「読書」的にインテグラルされているので、もともとOshoの本質そのものを玉川が「十分」理解した上の本ではなかった、ということもある。
4)読書としてならば、割と短期間に集中的に読書を行えば、一冊の本くらいかけてしまう要素がある。例えば、当ブログにおいても、今年のお正月を挟んだ約一カ月の間に村上春樹関連の本を約60冊ほど読んだが、その読み込み度はともかくとして、引用や印象をまとめるだけなら、当ブログだって、一冊くらい「ハルキ本」を書けるかもしれない、と誇大妄想を持つ。
5)その意味で、玉川のOsho理解は、浅漬け、一夜漬けの観が否めず、また、彼の人生においても、必ずしもOshoについての心境が最後の最後のものとはいえない。彼はOshoのあとに「<異説>親鸞・浄土真宗ノート」の本を一冊をモノしている。冥土への土産というところか。
6)そもそも、Oshoが「心理学」として捉えられることを拒否はしないまでも、迎合はしておらず、むしろそれは無理だろう、という姿勢を見せていること。むしろ、もし心理学が行き詰ったら、こちらの方向性があるよ、という手は差し伸べている、という理解のほうが正しいだろう。つまり、Oshoをトランスパーソナルに引き寄せていくことも、Oshoとトランスパーソナルを「相対」させることも、ほぼ無理であり、むしろ、トランスパーソナルが消えていこうとするなら、むしろ、その屍をやさしく覆い、骨を拾ってくれるのがOshoではないかしらん。
7)そもそも、トランスパーソナルと言われているものの本質は消えてしまったのかどうか。そのところの見極めは大切だ。もちろん、この文字を冠した団体は少なくとも日本には二つ以上あるようだし、まだ読書としてはこのジャンルが跋扈しているようだが、現場の最先端としては、どうなっているのか、そのあたりも、今後、確認しておく必要があろう。
8)今後、何かのおりにこの本を見返すこともあるだろうが、当初の想いはほぼ達成されたといえるだろう。この本が書かれた目的も達成されただろうし、読書としてこの本とつきあってきた当ブログにおいても、この本の役目はそろそろ完全に終了、ということになろう。つまりこの相関関係を明らかにするという目論見は、トランスパーソナルの消滅でほぼ失敗した、と見ておくほうがいいだろう。あるいは、そもそも、これら二つを相対させるにおいて、本質的な矛盾があった、ということもできる。この辺は、以後、なにかのつながりで展開していく必要があろう。
9)今回、リンクしていて気付いたのだが、玉川が不十分であるとは言えOshoの参考文献リストを作っていたのに、このリストに従ってのOsho読書が、当ブログにおいてはまだまだ進んでいなかった。そろそろ、原点に戻って、これらのリストを充填していく必要をあらためて感じた。
10)玉川本はほかにシリーズとして3冊残っている。「禅」、「性愛」、「聖典」。その中の「禅」はこれから、もう少し広い「ZEN」の形で読みこんでいこうと思うが、いずれにせよ、玉川OshoZEN本にも、そろそろケリをつける時期ではないか、と思う。当ブログにも、そろそろ春の足音が聞こえてきているのである。
Oshoも玉川も、肉体としてはすでにこの世にない。もちろんグルジェフ、ウスペンスキー、クリシュナムルティ、河合隼雄、などなどの人々もすでにこの世に肉体を持ってはいない。「死」の世界と対峙しながらの、当ブログの読書ウォーキングも、もうすこしつづくことになるのだろうか。
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コメント
☆monju
本はいろいろ持っているし、ひととおり目は通していますよ。
しかし、読んだという意味では、ウィルバーもグロフもまったく読んだことにはならないでしょうね。基本的にあまり好きではない。
まぁ、これは「本」すべてに言えることで、だからこそ、読書ブログという場を作って、あえて自らを読書させようという魂胆なわけです。
投稿: Bhavesh | 2010/02/26 12:55
バヴェシュは、トランスパーソナル心理学の代表的人物とされるひとたちの著述で邦訳されたものはどれくらい読んだことがあるのかな? グロフとかウィルバー以外のひとという意味ですが、、、、
投稿: monju | 2010/02/26 12:07