楽園瞑想 神話的時間を生き直す <3>
<2>よりつづく
「楽園瞑想」 神話的時間を生き直す <3>
宮迫千鶴 /吉福伸逸 2001/09 雲母書房 単行本 317p
★★★☆☆ ★★★★★ ★☆☆☆☆
本当にこの本の評価はむずかしいなぁ。お笑い系の人々を評するにキモカワイイという形容があるが、この本、ムズヤサシイとでも言うべき、面倒くささと興味引かれる部分とが一体になったような、妖怪的魅力がある。
どちらかというと数でいえば宮迫千鶴の発言のほうが多いようにも思うし、彼女は決して一方的な聞き役になっていない。吉福も、例によって言葉にキレがありすぎて、インドビールみたいで、もうすこし泡ちょうだいよ、という感じもするが、味はまずいわけではない。
この本から、あとは何を読み込むかというと、吉福のセラピストとしての姿勢と、ケン・ウィルバーとのからみの部分、ということになろう。もともとウィルバーを読み込むためにこの本を下準備として読んでいるのであった。以下、アトランダムに、いくつかメモしておく、これでこの本は卒業できるだろう。
吉福 例えば講演にいくと、同じテーマばかり頼まれる。その上、周りからの期待感がある。その期待感は、ぼくの5、6年前の姿に反応している。その間にも、ぼくはどんどん変化してしまっているわけです。p34
そう嘆くのもわからないでもないが、そんなこと言われたら10年前にでたこの本に反応している当ブログはどうなる。10年前にばらまいた本はすべて回収したらどうなのだろうか。一旦、出してしまったものは、責任をとって対応する必要はあると思うけどな。それは表現者としての、けじめ、てもんでしょ。
吉福 精神科医、心理学者、セラピストというのは、人間の心を扱う分野ですよね。心を扱う分野の人というのは、自分が人間の心のメカニズムに触れて、ある程度理解していると思いこんでいる人の集団なんです。それがかえって手に負えない(笑)。p35
それは、当然、自分のことも含めて発言しているのでしょうねぇ。手に負えないのは、周りから見れば、同じ感覚だよ。自分のことを周囲に投影している。
吉福 トランスパーソナルが扱っているのは、基本的には宗教的領域ですよね。多くの場合はシャーマニズムを含めて、精神的でスピリチュアルな領域を扱いますよね。スピリチュアルな領域を扱う学問であれば、「信仰心」の問題を取り上げない限り、トランスパーソナル心理学というのは、ひとつ学問領域として、不完全だと思っているんです。p115
いくらハワイの保養地における個人的なおしゃべりであったとしても、本として出版されるかぎり、この言葉など、限りなく杜撰な言葉の使い方ではないかなぁ。ひとつひとつをまったく決めつけで話している。すくなくともこの論理には問題あり。
吉福 (山尾)三省は、気骨のある男ですから、彼の語っている根っこのところには嘘は全然ないんです。ただ、詩人ですから、言葉が紡がれていくときに、彼の操作が入るんです。ぼくなんかは、「またぁ」っていう感じがすることもあるけれど(笑)。p126
まぁ、この辺はなんとなくわかるな。当ブログでも三省の本は何度かチャレンジしたが、なかなか読みこむまでいかない。せいぜい「ラマナ・マハリシの教え」の翻訳者としてだけだ。
吉福 もう18年くらい前のことです。その三省から、「シンちゃんとは、何年かたったら会えるかも知れないね」という手紙をもらって以来、会ってませんね(笑)。p127
この二人には私もあったことあるけれど、たしかにこの二人は違い過ぎる。まぁ、どっちが好きと問われても困るが(笑)。
吉福 それで、自分で構築したトランスパーソナル心理学、ユング心理学などの宗教心理学がらみの言語体系から、どうやって自分が脱却しようかというのが、ハワイに来てからの最初の数年間の、自分のテーマだった。p164
自業自得というヤツでしょう。すべては中庸を超えたやりすぎが原因でしょう。
吉福 この前作った「流体感覚」という対話の本も、みんな互いに探っているだけで、そこから先にはなかなか踏み込めないで終わっているんです。p179
「流体感覚」の対談の相手は、中沢新一、見田宗介、松岡正剛などだが、中心は吉福自身なのだから、もし「踏み込めて」いないとしたら、それはすべて中心人物のせいだと、私なら思う。どうしちゃったんだろうね、このセラピスト先生。
吉福 要するに物理化学の分野で、大統一理論というのが希求されているでしょう。その大統一理論を作ることによって、トランスパーソナルという学問分野を展開させて、単に心理学に留まらず、これまでのあらゆる人文科学やハードサイエンスも含めたところまでを統合していきたいというのが、ケン(・ウィルバー)の考えですね。そのケンの根っこにあって、彼のやった仕事の中で最も洞察が働いているのは、物質であれ、人間の心であれ、存在するものはすべて、いくつかの一貫性のある原理によって動かされているという考え方なんです。p218
ここでの吉福の解析が正しいかどうかも問われるところだが、もしその解析に妥当性があるとするならば、「いくつかの一貫性のある原理によって動かされている」という仮説は、幽霊の正体見たり枯れ尾花、という結末になりかねないと、私なら思う。
吉福 彼女(妻)の病気というのは、ぼくがニューエイジだとかトランスパーソナルのようなものを、日本に紹介していったプロセスの中で、ぼくを含んだユニットとしてファミリーの中に起こってきた問題なんですよ。そのプロセスは、ぼくたちにはたいへんすぎるミッションだったんですね。あまりにもたくさんの犠牲が強いられなければいけないものだった。p238
同情もするし、皮肉を言うところでもないのだが、そんなに別に無理して紹介などしてもらう必要などなかったんだけどなぁ。あんまり邪魔しないでほしかった。
吉福 ぼくも理念としては、最からわかってましたよ。セラピーをやっていますと、人が変わらないということがよくわかりますから。いらっしゃるクライアントの方を変えようなんて思っても、絶対にできません。p268
このへんはそうとうに危ないな。すくなくとも変えようとした、ということであり、絶対に変わらないという先入観をもってしまっていることになる。この人、自称にしてもセラピストでいることはちょっと危ない、と私なら感じる。
吉福 ニューエイジの流れのものは、よくおわかりでしょうけど、すごく軽薄なんですよ。たとえば、セラピストであるとか、シャーマニズムを研究しているいろいろな人がいますが、一年間だけの集中コースを受けて勉強して、ちょっとかじってすぐ専門家になりますよね。魂の深いところからの要請があってでき上がったものではないんですね。すぐ商売をしてしまう。p298
はっきり言ってこの人は病気なんではないだろうか。それほどさげすむべきものを、一生懸命に日本に紹介して家族が体を壊したりしている。ここでの表現は、すべてご自身のことを暴露しているだけだ、と私なら読む。
吉福 ニューエイジ関係の本などを含めて、そういうのがいっぱい出てきているでしょ。もうあれの大半は、ゴミですからね(笑)。「これは!」というものの数は本当に少ないです。p300
この人、このゴミづくりに加担していたことなど、さらりと忘れてハワイで静養中。
吉福 仏教のさまざまな経典の本格性をもったものは、みんなヴィジョンなんですね。瞑想とか極限状態を通したヴィジョンの世界観です。法華経もそうですし、スートラもそうです。そういうような認識方法です。合理的な考え方の先に出てくるのは、おそらくそういうものでしょうね。日本語として使われている「ヴィジョン」のニュアンスとはちょっと違って、実際に見えるものなんです。「未来のヴィジョンがある」という場合のヴィジョンではない。実際に認識して、見えているものなんですね。p303
誰も用語の説明とか、英語と日本語の使い方を説明してほしいと思っているわけじゃぁないんだよなぁ。吉福さん、あなたにはヴィジョンが見えてますか、ってことを聞きたいだけなんじゃぁないかな。まだまだいろいろあるが、この辺でほどほどにしておこう。なんともキモカワイイ一冊ではある。ムズヤサシイ・・・・だった。
この方には一曲プレゼントしたい。
| 固定リンク
「44)私は誰か」カテゴリの記事
- さがしてごらんきみの牛―詩画・十牛図(2010.03.02)
- 心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う <2>(2010.03.01)
- 「心の専門家」はいらない <2>(2010.03.01)
- ファミリー・コンステレーション創始者バート・ヘリンガーの脱サイコセラピー論(2010.03.01)
- 無意識の探険―トランスパーソナル心理学最前線 <2>(2010.02.28)
コメント