秘教の心理学<7>
<6>よりつづく
「秘教の心理学」<7>
OSHO /スワミ・プレム・ヴィシュダ 1994/09 瞑想社 /めるくまーる 単行本 317p
「意識をめぐる読書ブログ」を標榜する当ブログではあるが、なかなか「意識」領域にダイレクトに入り込んでいくのは至難の技である。適切な文献が少ない、表現者によって用語がまちまち、公開ブログとしての表現の限界、など理由はいくつかあるが、一番は、自らの体験や理解の薄さによるところが大きい。そこで、あえて冒険的に次のような図式から始めていこうと思う。
用語の使い方は各者さまざまなので、あえてここは統一しないで、わかりやすく上記のような形でまずは整理しておくことにする。つまり「意識」はひとつの「入れ物」だとして、その「入れ物」の中の、より暗部な部分を「無意識」と呼び、より明るい部分を「超意識」と呼んでおくことにする。これをさらに7分割とかすることも可能なのだが、今は、この程度で十分だろう。
そして、さらには、当ブログにおいては、どうしても越えて行きたいテーマがあった。それは「ブッタ達の心理学」という。どこかに誰かの定義があったようにも思うが、こちらもまた、便宜上、分かりやすく、下記の図式を使うことにする。
「心理学」はいまだ十分に開発されていないという幾多の先達たちの意見に当ブログは同意している。しかしながらウスペンスキーが使うような文脈では「心理学」という用語はどうしても必要なのではないか、と考えている。彼がいうところの「人間に可能な進化」とは「ブッタ達」のありようである、というのが、現在のところの当ブログの理解である。
「心理学」については、フロイトやユングなどをひとつの発端として、当ブログなりの嗜好性を加味しながら、読書を続けて行こうと思う。あるいは「ブッタ達」については異論さまざまあれど、当面の当ブログの読書ターゲットはOsho「私が愛した本」東洋哲学(インド)編を読み進めていきたい。
なんだか、この図式を見ているだけだと、陰陽マークすら連想するが、物事はそう単純でもなさそうだ。
7つの身体、7つの意識レベルについての解説はこの「秘教の心理学」のほかにOsho「奇跡の探求」1、2に詳しいが、これらの文献は、Oshoが1970年前後に語った初期的講話録から翻訳編集されていることに留意しなければならない。
だから第1身体から始め、他の6つの身体のことは考えてはならない。フィジカル体において完全に生きなさい。すると突然、新しい扉が開かれていることを知る。それからさらに先へとつづけなさい。だがけっして他の身体のことを考えてはならない。さもないと、それは妨げになり、緊張を生み出すことになる。
だから私が語ってきたことはすべて----忘れなさい! Osho「秘教の心理学」p206
Oshoの最後の講話は「禅宣言」として収録されている。そこにはZENにまつわるさまざまなことが残されているが、必ずしも、初期的な講話で展開されたような7つの身体、7つの意識ステージについていろいろ語られているわけではない。
残る一冊、「インテグラル・スピリチュアリティ」も読み進めなければならないのだが、そのケン・ウィルバーは、そのプロジェクトのスタート地点である「アートマン・プロジェクト」において、一番最初から次のように語っている。
さて、これよりアートマン・プロジェクトの物語がはじまる。これはわたしが見たものの分かち合いであり、わたしが想い起こしたもののささやかな捧げ物である。これはまた読者が草履から払い落すべき禅の埃であり、最後に、ただ唯一在るところのあの<神秘>の前では一つの嘘であることを忘れてはならない。ケンウィルバー1978冬「アートマン・プロジェクト」pxiはしがき
ZENシリーズにも早く到達したいのだが、なかなかまだそこには行けない。お楽しみはあとまでとっておくのも悪くはないかな? てなわけで、テクテクと、当ブログの読書生活はまだまだつづくのであった。
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