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2010/02/25

流体感覚 <4>

<3>よりつづく 

流体感覚
「流体感覚」 <4>
吉福伸逸、松岡正剛、見田宗介、中沢新一 1999/04 雲母書房 単行本 309p

吉福 いまは、仕事をやっていても徹底的にわがままやってますから。

松岡 でも、うまく脱出したなあ(笑)。

吉福 そう言えると思いますね。10年近くかかって完全脱出です(笑い)。だって、いままでかかわってきたことに対して、もう心が強く反応しないから。

松岡 ぼくは工作舎を辞めたとき、いろんな人に、「言いだしっぺの松岡さんが辞めるのはズルイですよ」とか言われて・・・・・。

吉福 やっぱり言われた?

松岡 もちろん言われたよ。でもね、その後「中断」ということの重要性がわかってきましたね。つまりね、人は継続もあるけど中断もあって、ミューテーションというのは、まさにそれでしょう。ミスプリントとか誤植っていうのが必要なんだけど、やっぱり同時代ではなかなか誤植が認められないんだよね。

 あとは10年も経つと、「ああ、途中で脱出したシンちゃんは、すばらしかったね」と言う人もいると思うけど、でも、同時代の誤植に関しては、たいてい「創造的誤植」だとは思われないんですよ。だけど、中断と誤植といいうのはものすごく大事です。身体の誤植や中断が病気でね、それが最近すごくおもしろいと思うわけね。だから、すぐ「よかったね」と言って、お見舞いに行っちゃう(笑)。

吉福 ぼくなんか、日本を出て最初にやった作業は、それまで使っていた語彙を、どれだけ使わないでいられるかということに集中することでしたね。自分がそれまで一生懸命つくり上げてきた言葉や思想の構造の一番底のところから、いかに解放されるかということを考えてきたんです。もういまは、何の努力をしなくても、そういう言語はあまりでてきませんけどね(笑)。1998年8月 新宿 p105

 この二人、よくよく考えてみれば1944年生れの同輩だった。おなじキャンパスで青春時代を過ごしている。話そのものは、それほど特筆すべきものではない。松岡は「千夜千冊」など、読書ブログの先輩として見習うべきところは膨大にあるが、今のところ距離をつめる予定はない。

 さて、今回「楽園瞑想」「流体感覚」二冊を読んでみて確認した重要なポイントがいくつかある。

1)吉福がトランスパーソナルというものに日本で積極的に関わった時代とは1984年~1989年までのわずか5~6年間だけであったということ。

2)1989年に「トランスパーソナル・セラピー入門」という本を出しておきながら、ご本人はさっさとこの直後に日本を脱出していったこと。「卒業」ではなくて、やはり「逃げ出した」という表現があてはまりそうだ。

3)ケン・ウィルバーの初期の翻訳は吉福ではなかったこと。空像としての世界」1983、「量子の公案」1984は別の翻訳家の手による。そして悪訳とされる「眼には眼を」1987/04(当ブログ未読)以降、吉福はウィルバーの翻訳から手を引いていること。

4)して見ると、ウィルバーの日本語訳ほぼ20冊のうち、吉福が関わったのはわずかに4冊だけということになる。ここで、「ウィルバー=吉福」的に混同していた当ブログは、今後、明確に分離した形でウィルバーと対峙する必要があることに気付いた。

 当ブログは、目下のテーマであった「ブッタ達の心理学」にすり寄っていくために、ケン・ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」を読み進めようとしている。そのためには、その出自であるトランスパーソナルという概念をおさらいし、その翻訳者のひとりである吉福伸逸という人の動向を探る必要があった。その流れをもうすこし確認するための作業はいくつか残っているが、この辺あたりで、吉福追っかけのターニングポイントがきたようだ。

 脱出したはずの日本にもどり、忘れたはずのセラピーをやっているらしい、現在の吉福伸逸という人物の「その後10年」の真の姿を追いかけるのは、しばらく先、ということになろうか。

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