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2010/02/09

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)
「村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する」
小森 陽一 2006/5 平凡社 新書 280p
Vol.2 963 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 2001年「9・11」の1周年にあたる2002年9月11日のちょうど1日前を刊行日として、村上春樹の7年ぶりの長編小説「海辺のカフカ」は出版されました。p7

 なるほど、そうであったか。そういう視点でこの小説を読んだことはなかった。最近まで、村上春樹と村瀬春樹の違いさえ知らなかった私である。その小説など、読んだこともなかった。ましてや2002年当時、ひとつの小説がそれほど話題になっていたことなんて、とんと我関せずだったのである。

 もっとも「海辺のカフカ」というタイトルや、なにやらカフカ賞をとったということは知っていた。もちろん、カフカの小説は10代の時にいくつか読んだ。グレゴール・ザムザが主人公の「変身」などは、いまだに背筋がぞくぞくっとするほど、記憶している。もちろん、9・11も知っている。知っているというより、21世紀の最初の年にあの忌まわしい事件があったことを忘れている地球人などひとりもいないだろう。私だって忘れてはいない。

 私が「ねじまき鳥クロニクル」にどうしても違和感を感じるのは、1994~5年に出た小説である、ということだった。あの時代、あの小説を自分は読んでいただろうか、と思うと、なかなかイメージができなかった。だから、どうしても違和感がある。ヤスケンの精読批判にいくばくかの共感を持つとしたら、そういう時代背景もあったからだ。

 さて、私は「海辺のカフカ」をとても面白く読んだ。読んだと言ってもごくごく最近のこと、わずか一カ月前のことである。その時代背景など考えたりしなかった。ただただストーリーを追いかけることができただけで満足していた。

 2002年9月。私は子どもが通っていた高校のPTA会長をしていた。そしてそれだけではない。私の周囲ではある事件が勃発していた。その高校の野球部が、地方大会で優勝して甲子園に行ったからである。地域の公立高校としては、40年ぶりの珍事だった。

 いまではプロ野球のトップ投手を務めている選手たちを擁する有力な強豪高校が他にもあった。にもかかわらず、わが高は、あれよあれよというまに地域優勝してしまったのだ。それからの怒涛のような日々を今ここで書くだけの余力はない。ただ、そういう日々があった。

 あの頃、私は小説を読もうなんて思っただろうか。しかも15歳の少年が家出して、四国に旅する小説を。(そういえば、甲子園で対戦したチームは、四国の高校だった)。目の前には、いつも15歳の少年たちがいた。「海辺のカフカ」の少年と、目の前にいる少年は同じ15~6歳の少年ではあった。その内面はどこかでリンクしていたことはあっただろう。

 私のなかでは、物語層としての「海辺のカフカ」と、自伝層としての「甲子園」、そして象徴層としての「1QQ5」は、まったくリンクしていなかった。そんな作業の必要性を考えることもなかった。9・11のことは大変な社会問題になっていた。あの事件に挑発されて、どこかの国の高校生がセスナ機を飛ばして撃沈した。そのことをPTAの会誌に書いたことは覚えている。

 学校の前には、谷を挟んで、国立病院があった。あの病院で、40年前、父は死んだ。5年間の療養生活の果ての病死だった。私は8歳だった。たぶん、私が小説を書ける人間なら、あの日々のことを書くだろう。子どもの時のことと、自分の16歳の時と、自分が父になって、16歳の少年たちと生きていた日々。

 物語層としての「海辺のカフカ」を、ゆっくり、あの2002年という時代の中で考えてみると、自伝層としての「甲子園」が連動して動きだす。たくさんのストーリーがあったのだ。私には、小説なんていらなかった。自前のストーリーが幾重にも絡みこんで、存在していた。

 あの葛藤の中で、私の象徴層「1QQ5」はどうなっていたのだろう。そう考えてみると、なるほど、ああ、ブチ切れているかもしれない。

 たくさんのシンボルが浮かび上がる。死。龍神。戦争。旗。旅。鏡。空。おもちゃの電車。父。小さな編み箱。40年。歓声。8月15日。豚舎。天皇。ラジオ。結核。校歌。街頭。ニュース。夜行バス。ヒット。そして、ふたたび死。太陽。

 なるほど、なにかの流動が始まった。「海辺のカフカ」。いつか再読する機会があるだろう。ひとつひとつに分かれ、そして再び繋がりなおす。

 豊かな言葉は、死者と対話しつづけてきた記憶の総体から産まれ出てくるのです。漢字文化圏における「文学」という二字熟語は、漢字で書かれた死者たちの言葉すべてについての学問のことです。21世紀こそ、「文学」の時代として開いていくべきなのだと思います。p177

 なんだか、不思議な一冊だ。

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