« 曼荼羅グラフィクス<4> | トップページ | 流体感覚 <2> »

2010/02/24

流体感覚 <1>

流体感覚
「流体感覚」 <1>
吉福伸逸、松岡正剛、見田宗介、中沢新一 1999/04 雲母書房 単行本 309p
Vol.2 975★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 「楽園瞑想」の対談にさかのぼること半年前にでた本。対談者が、松岡正剛、見田宗介、中沢新一、と豪華版。村上春樹は身体性を獲得するためにフルマラソンにチャレンジし続けているが、この本の出版当時、吉福はサーフィンにその身体性を求めるかのように、ハワイのサーフィン・スポットに居を構えていた。

 別に対抗するわけではないが、私も身体性を獲得するために、近くの図書館までウォーキング(笑)。往復でちょうど一万歩ほどになる。図書館に行って、この本を受け取り、ちょっと一息いれて、帰り道の「考え事」用にちょっとだけ読んでみた。

 三人との対談で、それぞれ2回づつに分かれている。6つあるうちの一番気になる対tルは「トランスパーソナルをめぐって」p177。対談者は中沢新一。こちらも、別立てで気になる存在ではある。ひととおり読んでみて、ふと気付けば、6対談のうち、この対談だけ87年11月にすでに雑誌「春秋」に掲載済みのものであった。

 一度掲載されたものであったとしても1999年当時に加筆訂正されているのだから、まぁ1999年の二人の心境と矛盾しない内容が書かれているものと判断して読み進めた。87年か。私はこの年に、1歳と3歳の子供の手を引いて、紙おむつをバックパッキングしながら、奥さんと4カ月インドに滞在した。Oshoコミューンでカウンセラー・トレーニングを受けたのだった。

 あれからすでに23年経過した。なんと年月が経過することの早いことだろう。わが家の二人の子供たちはすでに、成長して自立し結婚までしている。あっという間に、ひと世代が変わってしまったのだ。

吉福 日本に帰ってきてから十年以上経ってからだったと思いますが、そういうことをしていると社会は受け入れてくれない、と感じるようになってきたんですね。中沢君の場合は、大学というアカデミズムとの接点がありますけど、ぼくの場合は、接点が完全に断たれてしまっているし、拠って立つところがないと、自分の感じていることを人に伝えていくのは難しい。で、何かに中心を置こうということで、ニューサイエンスからトランスパーソナル心理学にターゲットを移してきたわけです。p183

 74年に帰国したとして、十年が経過した時点とは84年になる。ニューサイエンスとしてのカプラ「タオ自然学」が79年1月、ウィルバーの「意識のスペクトル」が85年の4月。なるほど。別に疑っているわけじゃぁないが、この人のお話の場合、ひとつひとつ確認しておかないと落ちつかない。

吉福 フロイトの精神分析学にしても、アメリカやヨーロッパ人の目から見ると、日本にはいってくると奇怪なものに変わっているように見えるらしいんだね。

中沢 そう言えば近々、ラカン派の精神分析が日本へ上陸するらしいですね。京大が中心になるしいけど、日本では初めてではないかな。ラカン派の精神分析の養成を始めるんだけど、それは日本の精神分析の歴史の中ではちょっと異例のことですね。
p196

 当時、本流視されていないとは言えアカデミズムの中にいる中沢に対して、アカデミズムからは「接点が完全に断たれている」吉福。1985年の京都における「トランスパーソナル国際会議」の立役者の一人ではあるが、アカデミズムの外に自らの居場所をつくらざるを得ない。

中沢 例えば、日本でトランスパーソナルの可能性に賭けてみようという場合には、そこで超越的人格というか、自己からの超越というか、そういう問題がでてきますね。p197

 この辺の問答は細切れにすると誤解を生みやすいが・・・・・

吉福 そのへんは、ぼくたちが出している図式は簡単明瞭だと思うんですね。やはり一回、母子関係を切り離して、子どもが、社会あるいは地球の上に一人ですくっと立つことから全ては始まる。母子関係の癒着のまま、あるいは日本的な文化的伝統の中に首から下をぜんぶ埋没させたままで、「私は一人で立っていますよ」とは言えないというのが、トランスパーソナル心理学、とくにケン・ウィルバーなんかの主張で、それは彼の言う「自我の確立」ということですね。

中沢 ただ、それはまだ超越じゃないよね。

吉福 超越はまずそこから始まるというのが、トランスパーソナル心理学の図式だよね。 p198

 この段階でも、決して上手にトランスパーソナルという概念を語られているわけではない。

吉福 ウィルバーのものなんかを読めばわかると思うんだけど、彼の最大の思想的なお師匠さんというのは、アーナンダ・クーマラスワミという、19世紀から20世紀にかけてのスリランカの出身のインド美術の専門家なんです。そのクーマラスワミは、母なる地球的なものへの回帰ということに超越の源を見ているわけです。

 だから、フロイト的な意味での個人の自立というものを一つの分岐点と考えるとすれば、フロイトが考えたような直線構造でそのまま進んでいくのではなくて、一回母と切り離されて自立し、それからもう一度母なる地球的なものへ一体化していくという、そういう構造をウィルバーは言っているんだと思う。p199

 どこかにこの名前はでてきたのだろうけど、覚えていなかった。他にこの人の名前が登場するものは少ないと思うが、あれば探してみよう。アーナンダ・クーマラスワミ。

中沢 ゾクチェンの考え方というのは、ある意味で、華厳経とか、如来蔵とかいうのから影響を受けていて、それはトランスパーソナルが影響を受けている源泉とよく似ていますからね。日本で言うと、法相宗とか、三輪宗とか、ああいうものですね。

吉福 ぼく自身も、スタニスラフ・グロフのブリージング・セラピーをやったりするんだけど、もう、ほとんど普遍的に、胎内回帰というのはどんな人にでもおきてくるんです。p225

 あの時代、あのテーマに渡って、この二人が話しているという状況は興味深々だけど、画期的ななにかが語られているようには思えないのは、すでにあれから四半世紀が経過してしまったからだろうか。

<2>につづく

|

« 曼荼羅グラフィクス<4> | トップページ | 流体感覚 <2> »

44)私は誰か」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 流体感覚 <1>:

« 曼荼羅グラフィクス<4> | トップページ | 流体感覚 <2> »