村上春樹とドストエーフスキイ
「村上春樹とドストエーフスキイ」
横尾 和博 1991/11 近代文芸社 単行本 238p
Vol.2 961 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
横尾にはこの本の続編として「村上春樹の二元的世界」1992や、「村上春樹×90年代 再生の根拠」1994がある。向こうを先に読んじゃったあとにこちらを読むことになったのは、その60年代とか70年代とかいう時代の切り方よりも、ドストエーフスキイ(と横尾は意識的に表記する)と村上春樹をつなげているタイトルに新鮮さを覚えたからだった。
もっとも、村上春樹は随所にドストエフスキーについてのコメントを残しているので、それらを拾って、それを基に論を展開したら、かなり面白いことになるのはまちがいない。この本は1991年にでているので、村上春樹前期、さらには「ねじまき鳥クロニクル」さえも発表になっていない前までの括りなので、その辺、ボリューム不足は否めない。
しかしそれでも、この時点での村上春樹とかのロシアの文豪との関係をきちんと視野に入れて、一冊ものしているということは素晴らしい業績であると思える。この時点での著者のプロフィールは「1950年(昭和25年)東京生れ。ドストエーフスキイの会 会員」とだけなっているだけだ。著者にとっては、村上春樹よりもさらにロシアの文豪の方が大きいウェイトを占めている。
私の「村上春樹とドストエーフスキイ」では、タイトルからしてアンバランスな組み合わせだと言われて、その意味では注目していただいたわけなんですけど、私はやはり現代の問題を述べてみたかったことと、ドストエーフスキイのラディカルな展開が村上春樹に受け継がれているんだと、その二点を不十分ながら書きたかったんです。p234
この本がでてすでに20年近くの時間が経過している。はて、ここで横尾いうところの「ドストエーフスキイのラディカルな展開」は、本当に村上春樹に受け継がれているだろうか。
さて「鼠」が読んでいた本とは、どんな本だったのだろうか。
ドストエーフスキイ愛読者の私としてはここで、「鼠」に「地下生活者の手記」あたりを読んでもらいたかったのだがそうはいかない。
チャプター27で、「僕」が「ジェイズ・バー」に行くと、「鼠」がそこのガードレールに腰かけて読んでいた本のタイトルは、カザンザキスの「再び十字架にかけられたキリスト」である。p100「カザンザキス、生への肯定」
カザンザキスの「その男ゾルバ」は映画にもなっていて、川本三郎との対談「映画をめぐる冒険」1985の中で、村上は「これは本当に素晴らしい小説」と絶賛している。
村上春樹が、このカザンザキスという作家にシンパシーを感じていることは確かだ。
90年6月に出版されたギリシャ・イタリア旅行記「遠い太鼓」を読めば、彼がギリシャという国自体に好感を抱いているのがよくわかる。映画「その男ゾルバ」のエピソードもたびたび登場する。p102
ギリシャ旅行記としては「雨天炎天 アトス--神様のリアル・ワールド」 を読んだきりだった。「遠い太鼓」はまだ読んでいない。
この横尾の本は、「村上春樹×90年代 再生の根拠」とならんで、とても興味深い。ある種のアルゴリズム(それは60年代的言語体系とでも読んでおこうか)も、わずかながら習得している、「遅れてきた団塊世代」の私(1954生れ)には、なつかしく理解やすいものであるが、2010年の今、このまま持ってきても、一般性をかち得ることは難しいだろう。しかし、だからこそ、ところどころに疑問を挟むことになるが、むき出しのスピリットが、こちらのハートをごしごしと掻きむしる。
「1Q84」の二人の主人公を、私と同じ1954年生れに設定した村上は、かのいわゆる「全共闘」的背景を借りながら、しかし、そこからは明確に隔絶した世界を書こうとしていると、私は見る。
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