村上春樹―「喪失」の物語から「転換」の物語へ
「村上春樹―『喪失』の物語から『転換』の物語へ」
黒古 一夫 2007/10 勉誠出版 単行本: 294p
Vol.2 960 ★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
第一部と第二部に分かれており、第一部は1989年に出版された黒古著「村上春樹 ザ・ロスト・ワールド」に加筆訂正されたものが収録されている。それまでに発表された作品に対する評価を中心に、論調も当時のトーンを継承しているので、違和感を感じるところはむしろ少ない。違和感を感じないというのは、このような評論集の場合、よしあしで、とくに議論を持ちかけられている感じもしないし、こちらから敢えて喧嘩をふっかける気もおきない。絶版になっていた評論を再収録した、という意味では意義深いであろう。
第二部は、この本もまた1995年を挟む村上春樹の変貌を捉えており、第一部の「喪失」に対比させて、「転換」という言葉で象徴させたのは的を射ていと言える。それは、「デタッチメント」と「コミットメント」という言葉でも表現されているが、こちらは、もともと村上春樹本人の言葉ではあるが、あまり上手に表現されているとは思えない。
そもそもデタッチメントというのではあれば、小説そのものを書かないだろうし、読者を想定して何事かのメッセージを発するということはないだろう。いわゆる「ひきこもり」と表現される存在があるとすれば、その存在はむしろ発信もしなければ、受信もしない、と見るべきである。多少でも送受信しているのであれば、程度の問題で、あとは「デタッチメント」などと気取る問題ではないと思う。
それに比して、今度は「コミットメント」と名付けては見ても、それでは、どれほど多くの人と付き合うのか、コミットメントすればいいのか、ということになると、これまた程度の差こそあれ、私は社会と「コミットメント」している、私は世界と「コミットメント」している、などと大げさに言うべきものではない、と私は思う。あとはレベルの針がどちらにどの程度振れているかの問題であり、大げさに、なにか別世界のこととして、大きな対比的に取り上げるほどのことはない。
卑近な例ではあるが、たとえば、当ブログへのアクセスのほぼ90%は一見さんである。なにかのキーワードがリンクして一度はクリックしてみました、ということで、その90%は二度と戻ってはこない。残り10%のうち、リピータとしてその後たびたびアクセスしてくるのはほんの1%に過ぎない。さらに言えば、その存在がうっすらと感じられ、しかもどこかで「共」的なリンクを感じる得るのは、その中のさらに微々たる数字でしかない。
だから、ブログとしてのイメージとして、当ブログが心がけているのは、せいぜい200名程度の人々に、声がとどき、読まれる程度の内容にしておこう、ということである。200名という数字の根拠はいろいろあるが、個人的な付き合いで、たとえば自分の年賀状の数を考えてみる。毎年枚数は違うが、大体顔が見えて、去年も付き合って、今年も付き合っていくだろう、という具体性を持った存在はせいぜい200名(家族)程度のものだと、いつも思う。一方的なDMや、切るに切れない腐れ縁の年賀状もあるし、組織的にお義理で送られてくる仕事関係も、考えてみれば見苦しい(というか、こちらも送ってしまっているが)ところがある。
さて、その200名の中でもさらにコアな人々は数十名であって、さらになお、本当に「同士」とさえ呼べるような存在は、ほんの数人か、本当の一握りということになる。デタッチメントとコミットメント、などと大げさなことを考えたって、本当は、それほど針の振れ具合は、大きくないのだ。
黒古一夫はそのコミットメントへの「転換」を、アメリカへ移ってからの村上作品、「ねじまき鳥クロニクル」シリーズにみる。その出だしとして書かれた部分は、切り離されて「国境の南、太陽の西」という別建ての作品になった。そして「ねじまき鳥クロニクル」のなかの「戦争」がテーマになっている部分にもコミットメントの兆候を見る。
しかし、最大の「転換」は、やはり1995年におきたふたつの大きな事件によるとする。この辺の推理はほぼ間違いはないと思うのだが、この年のウィンドウズ95発売に触れる解説者はほとんどいない。「ねじまき鳥クロニクル」第3部に現れるメールによる受信配信として現れる、ネット社会への参加を、ほとんどの研究者たちは見逃している。その後のHP作成や、ファン感謝デーのような本づくりを推進した村上の、「小説」以外の世界における「コミットメント」について多く語っている解説はない。1995年転換説を唱えるのであれば、絶対に必要な視点であると思うのだが。
この本の巻末には王海藍による「中国における村上春樹の重要---村上春樹は中国においてどのように読まれているか」が付録として収録されている。翻訳によって、あるいは経済拡張によってグローバル化する世界で、村上春樹が多くの読者を獲得していっている。中国という特殊な具体性のなかで、ネット社会の成長など、情報の自由化が進む中、グーグル対中国当局、という図式も見えてきた。その渦中にあって、今後、村上春樹はどのように読まれ続けるのかを考えると、この王海藍の論文もとても興味深い。
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