村上春樹と物語の条件
「村上春樹と物語の条件」 『ノルウェイの森』から『ねじまき鳥クロニクル』へ
鈴木智之 2009/08 青弓社 単行本 348p
Vol.2 953★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
この本は今回の村上春樹追っかけのリストの中でも、もっとも最新刊に属する一冊である。もちろん「1Q84」が出版されたあとに出されているし、「あとがき」などにもその作品名が登場することから、著者は当然それを読んだうえでこの本を書いているのは間違いない。にもかかわらず、数ある村上作品のなかから「ノルウェイの森」と「ねじまき鳥~」に絞り込んで、その論旨を展開しているのは何故だろう。
「ノルウェイの森」はそれなりに読みこんだし、マイベスト3の中にも入る一冊だと評価している。「ねじまき鳥~」も一応は読んだが、第3巻において、時代背景やその設定に違和感を感じたまま、要再読として放置してままだ。
こちらの鈴木本を読み始めるにあたって、後半のテーマが「ねじまき鳥~」であってみれば、もう一度、第3巻を再読したあとに読もうかなとも思ったが、かなわなかった。再読するまでのインターバルがうまく取れないまま、この鈴木本を読んだことになる。結果としては、それでよかったのではないか、と思う。というのは、この鈴木本も、要再読であるからである。今後、なんどか交互に読まれ、リンクされ、解題されていく必要がある。
2009年になってから、1987年、あるいは1995年に出版された小説を読みなおすことなど、どうも時期外れなことではないか、と思った。とくにこの1カ月ほど、ようやく村上春樹を読もうと思い立って、集中して追っかけている当ブログのような存在は、ちょっとアナクロな、ときには滑稽な旅をしているのではないか、と思ってしまうのである。
ところが、この鈴木本のように、敢然として、毅然として、これらの作品に取り組んでいる姿勢には、こちらもまた背筋が伸びるような、心地よい影響を受けることになる。いいや、必ずしもアナクロでもないし、無益でもない。人間としての営為として、あり得る姿だ。これでいいのだ、と思わされる。
小さなことだが、この本で盛んに引用されている村上本人の小説の文章は、初版本よりは文庫本からの引用が多い。これは、他の解説本もそうなのかもしれないが、要は、議論を前提として引用する場合、読者もまた同じテキストを使用する可能性があり、その便宜をはかる意味でも、文庫本のページまで書かれているのだろうと推測した。
さて、一読者としての私は、文庫本で読むことと、初版の単行本で読むことでは、かなり感覚的な違いがある。文庫本は、輝きはあるものの、どこか荒々しいものが抜かれ、なにか苦味のようなものが失われているように感じる。
小説(文学作品)は、そもそも文章における芸術なのだから、その文字さえ同じであれば、その意は達成されていると思うのだが、どうも違う。決定的に違うものを感じる。たとえば、村上春樹をネット上の文字としてパソコンのディスプレイ上で見ることを考えてみる。それはそれとして、いつかは、その在り方がベストにならないとは言えないが、すくなくとも、初版本や文庫本とも違う、まったく別な読み方となるのではないか。
逆に言うと、当ブログのように、最初からディスプレイ上の文字である、という規定の中で書かれていく文章とは、いったい何であろうか、と自らに問うてみる。文字として残されるものとは一体なになのか、というところで、たとえば小説を書く、ということとブログを残すということはどう違うのか、を考えた。
当ブログにおける村上春樹は「クラウドソーシング」カテゴリの中で語られてきたが、まもなく「地球人として生きる」カテゴリへと移行される。その視座の変化の中で、新たに何がどう問われて行けばいいのだろうか。
ここでまず確認されるべきことは、二つの作品がいずれも、「生存」の物語を語っているということ、より正確にいえば、「生存の様式」の獲得を掛け金として物語を起動させているということである。私たちが一個の存在として「生き延びる」ための条件が脆弱なものとして認識され、これを乗り越えようとする物語が提示されている。p339
生きる、ということは、生き延びる、ということである、ということをまず再認識しておく必要がある。
アガンペンは、この「人間であること」のあとを「生き残されている」人間の範列を、アウシュビッツで「回教徒」と呼ばれた人々に見ている。「人間」と「非-人間」とを区分する境界が失効してしまった状態を生きている者。したがってまた、本当の意味ではもはや「生きている者」とは呼べない人間。生きている人間と完全な死体の中間状態を、うろうろと歩き回っているだけのの存在。「回教徒」とは、「そのせいが本当の生ではなくなった者」、あるいは「その死を死とは呼ぶことができなくなった者」を示す隠語である。この不分明な領域のなかで、人間を「生かしながら死ぬがままにしておく」ところに、権力---生政治---の本質が露出しているのだ。p220
人間という言葉に対する地球人とはなにか。それは何を意味することになるのか。「地球人として生きる」とは、生き延びることであり、この21世紀の世界において、生きる屍ではないことを意味する。「地球人として生きる」場合、読まれることを意識しつつ書かれる小説をは何か、読まれることさえないかもしれないブログを書き続けるとは、一体どういうことか。
その作品世界に踏み込んでみたとき、村上春樹もまた、「本当の生活」を拠り所としてそこから視線を上げていった作家だといえるのだろうか、これにはいささか留保が必要になるだろう。村上春樹はむしろ、「地べたにある」生活の手触りを失ってしまったところから書き始めた作家ではなかったか、と思われるからだ。p141
「1Q84」によって触発された村上追っかけではあったが、その直後の解説本よりは、まったく「1Q84」抜きに展開される村上論もまた素晴らしい。決して時期遅れでもなく、むしろ、再考、再々考を重ねていくことができるのだという、よい見本であるように思う。作品自体がそれだけの深みがあるとともに、作品は読み手のセンスによって、いかようにも磨かれていくのだ、というケースを見た気がした。再読を要す。
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