新日本学術芸術振興会 専任理事 「牛河」
「村上春樹の『1Q84』を読み解く」 <3>
村上春樹研究会 2009/07 データハウス 単行本 217p
「新日本学術芸術振興会 専任理事」p198
この「読み解く」の中に「うずまき鳥クロニクル」という文字がでてくるのは77p、79p、 85p、135p、198pの5回。リストの中にでてくる前2回はその内容に言及がない。85pにおいては夏目漱石の「こころ」に見られる人間観との比較について、135pにおいては「戦前日本人の中国侵略」についての贖罪に触れられている。しかし、量的にはごく微量である。
しかしながら、この本の後半もずいぶん最後のほうになって、198pにおいては、4ページに渡って、「ねじまき鳥クロニクル」との関連に注目が集まる。
「ねじまき鳥クロニクル」第3部にも登場した「牛河」という名の人物が再び現れた。見た目や細部はいろいろ変更されて、肩書きも議員秘書から今回は財団専任理事となっているが「主人公が対峙する淫靡で大きな力の手先」といった物語上のポジションは踏襲されている。p198
私はこの部分を読み返してみて、ふと、村上春樹がちょうど一年前にエルサレム賞を受賞したときの記念講演を思い出した。
これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。
「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」
ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう? 2009年2月「エルサレム賞での村上春樹スピーチ」
壁と卵、という比喩があるとき、当然のごとく村上本人も、村上作品の主人公たちも「卵」だとするとき、「壁」はどのように表現されているのか。ここで登場してくる「新日本学術芸術振興会 専任理事」である牛河は、もともとの出自は「卵」であるようだが、主人公=天吾に対峙するときは「壁」側のエージェントとして存在する。
いや、卵にとっって、壁は全体として把握することなどできない。むしろ壁として感知される部分はごく一部だ。むしろ卵は「牛河」の存在によって初めて壁の存在に気づく、と言ってよい。
「申し遅れました。名刺にもありますとおり、牛河と申します。友だちはみんなウシ、ウシと呼びます。誰も牛河くんなんてきちんと呼んでくれません。ただのウシです」と牛河は言って、笑みを浮かべた。「1Q84」book2 p43
なんだか実にいやらしい登場の仕方だが、これがなかなかの名脇役で、「壁」のいやらしさを一身に背負いこんだ、まるで「壁」そのもののような存在感を示す。
「いやいや、自己紹介が遅れましたね。失礼、失礼、牛河っていいます。動物の牛に、さんずいの河って書くんです。覚えやすい名前でしょう。まわりの人はみんな、ウシって呼ぶんです。<おい、ウシ>ってね。そういわれると変なもので、だんだん自分が本物の牛みたいな気がしてきますね。・・・」「ねじまき鳥クロニクル」第3部p155
まさに「主人公が対峙する淫靡で大きな力の手先」とでもいうような姿で牛河は登場し、その言動でページを稼ぐことによって、その「隠微」さを表現する。今後、当ブログでも重要な登場人物なので、ここで壁側のエージェンシー「ウッシッシ」とでもニックネームをつけておこう。(ウッシッシ)
瞑想したり、ふすまを睨んだりしながら、今日は寒いので布団の中で考えていた。自分は卵だろうか壁だろうか。当然、自分では卵だと思っている。しかし、いつもいつも卵であっただろうか。たとえば、組織の人間として個人と接する時、つまり会社側の人間として顧客と折衝するとき、あの時、自分は壁の側にいなかっただろうか。
子どもとして親に叱られた時、自分は卵で親は堅固なる壁に見えた。しかし、自分が親となって、子どもを叱っていた時、自分は果して卵のままだっただろうか。むしろ壁に変身していたのではないだろうか。いつもいつも卵でいることはできないようだが、またいつもいつも壁でいる必要もなさそうだ。
9.11、あの時、世界貿易センタービルに突っ込んでいったイスラム青年たちは、自分たちは卵だと思っていたのではないだろうか。自分たちは卵で、今、壁にぶつかっていくのだ、と。しかし、ビルの中で働いていた人々もまた、自分たちを壁とは見ていなかっただろう。あの時、世界貿易センタービル全体が、見方を変えれば、やわらかな卵と化していた、と言えないこともない。
麻原集団に加入していった一人ひとりの過程を考えると、彼らもまた豊田亨のように、卵であっただろう。そして、ずっと自分は卵であり続けた、と思っている者もおるだろう。しかし、ある時から、彼らは、何かに対する壁と化していた。麻原本人にしたところで、自分は卵だと、思い続けていた節がある。
もともと貧乏な画学生であったヒトラーにしても、自らを卵になぞられていた時期があっただろうし、その圧政下にあって辛酸をなめたユダヤの民もまた、自らを卵に見立てることに、なんの躊躇もないだろう。
しかし、もしユダヤの民が卵であり続けていたら、村上春樹はエルサレム賞受賞の席で、あのようなスピーチをすることはなかったであろうし、話題にさえなることもなかっただろう。パレスチナの人々から見れば、イスラエルこそ、いまや壁と化している。
こうしてみると、私たち地球人のひとりひとりは、卵であり、柔らかいものであるが、いつ何時、壁と化してしまうかわかったものではない、と思う。「ねじまき鳥クロニクル」と「1Q84」を繋ぐ重要なリンクの一つに、この牛河という存在がある。壁側エージェンシー「ウッシッシ」だ。
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