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2010/02/20

こころの生態系<2>

<1>よりつづく
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「こころの生態系」日本と日本人、再生の条件 <2>
河合 隼雄 (著), 中沢 新一 (著), 小林 康夫 (著), 田坂 広志 (著) 2000/10 講談社 単行本: 220p

 本の成り立ちとはそれぞれに異なっており、書き下ろされるものもあれば、雑誌に連載されたものが再編集されて収録される場合もある。この本は、あるシンクタンクが主催したシンポジウムをもとに出席者たちの発言を中心に再構成したものである。だから、こういうメンバー構成になった。

 主催したのは、日本総合研究所、というところ。略して日本総研。今回ググってみて初めて気がついたのだが、この名称を持つシンクタンクは二つある。1969年に住友銀行から独立した株式会社と、1970年に経済企画庁(当時)及び通商産業省(当時)認可として設立された財団法人(会長寺島実郎)。この本の企画は、前者の株式会社によるものである。

 個の自由から生まれる巨視的レベルの進化発展的過程こそが秩序形成の源泉でありその現場であるという事実、および個の自由が真に生かされるのは非平衡状態から生成さえる創発的秩序の中においてのみであるという事実、この二つの事実にともに立脚することによってのみ可能となります。
 では、そのような個の自由から全体の秩序が創発してくる過程的場所こそがもっとも生産的な豊穣の場所であるとして、われわれはそこで具体的にどう振る舞い、行動すればよいのでしょうか。
「あとがき」 日本総合研究所 相談役 花村邦昭

 なんだかやたらと面倒くさそうな単語の羅列だが、要は、個人の自由は大切だが、君たちはその自由をどう使うの、と問うているのだろう。まぁ、はっきり言って、余計なお世話だ、と言いたい。

村上 (略)日本にいるあいだは、ものすごく個人になりたい、要するに、いろいろな社会とかグループとか団体とか規制とか、そういうものから本当に逃げて逃げて逃げまくりたいと考えて(略)いました。(略)
 アメリカに行って思ったのは、そこにいると、もう個人として逃げ出す必要はないということですね。もともと個人として生きていかなくちゃいけないところだから、そうすると、ぼくの求めたものはそこでは意味を持たないことになるわけです。
「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」p9

 「こころの生態系」という本のサブタイトルに、どうして、「日本と日本人、再生の条件」という文言がついてくるのか不思議だったのだが、なるほど、これらのシンポジウムや本の企画にたずさわったのが「日本」総合研究所、というところだったからなのだ。

 リクエストとあらば、ましてや、そのような注文には実に器用に対応できる中沢や河合といった人たちであれば、お題の「日本」や「日本人」をうまくテーマに織り込んで展開してみせることは可能であろう。しかも、こここそが、問題の核心であるかのごとく、強調さえして見せるだろう。しかし、もともとこの人たちが「こころ」を語る場合、日本や日本人なんて概念は本当は必要ないのだ。

 当ブログの追っかけテーマとしての「意識」だが、まずは個人における「意識」と規定しておこうと思う。日本とか、日本人とかの括りは外したい。「私たち」の意識ではなく、「私」の意識、がテーマである。

 それならば、君は日本や日本人はどうなってもいいのか、と問う声もあるやもしれない。しかし、それは本末転倒だ。地域の産業や伝統はどうなってもいいのか。地域のシャッター商店街はどうする。いや、すでに傾き始めた生家はどうする、てめぇの飢えた家族たちはどうする、ということになってしまう。あるいは、この死にかけた「地球」はどうする、と逆に視野を大きくしてみることさえ可能だ。

 当ブログにおける、地球人という概念は、県人とか、日本人とか、なになに人という概念が拡大していった地球人ではない。決して、地域や住まい方に規定される存在のあり方ではない。自らの「私」を見つめていった場合に、最後に立ち上ってくる存在としての「私」を、「地球人」と規定しているに過ぎない。

<3>つづく

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