まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学
「まなざしの地獄」 尽きなく生きることの社会学
見田宗介 2008/11 2008・11 河出書房新社 単行本 122p
Vol.2 978★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
著者の最新の消息を尋ねて、最も近刊そうな本を借りてみた。小さな読みやすそうな本ではあったが、すでに何十年も以前に発表された小さな論文2本の再掲載だった。永山則夫のことを書いている。
われわれはこの社会の中に涯もなくはりめぐらされた関係の鎖の中で、それぞれの時、それぞれの事態のもとで、「こうするよりほかに仕方がなかった」「面倒をみきれない」事情のゆえに、どれほど多くの人びとにとって、「許されざる者」であることか。われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。p73
三か月、ボイラー修理工として真っ黒になって働いた。ようやくつかんだ小銭をもって、三か月の旅にでた。ヒッチハイクで北から南。青森で天井桟敷が公演を打っていた。昼の間に青森県民会館の客席にもぐりこみ、バックパックと一緒にうずくまって夕方の開幕を待った。チケットを持っていなかったし、買う余裕もなかった。演目は「邪宗門」。姫ビールの垂れ幕と、こん棒を振り回して客席におりてくる役者たち。
芝居が引けたあとは、そのまま劇団員のふりして、打ち上げパーティに入り込み、寺山修司と呑んだ。シーザー、九條映子、佐々木英明、友川かずき等がいた。そのまま着の身着のままで酩酊し、彼らと一晩雑魚寝した。あの時、私は18歳。
それから次の年あたりに東京に行って、とある都市コミューンを名乗る仲間内のスペースの、煙モクモクのなかで「ドン・ファン」のことを聞いた。教えてくれたのは、当時東大教授のT。見田の師匠筋にあたる。彼から見田=真木の名前も聞いた。
永山則夫。彼の名前は忘れてはいない。忘れるものか。
いや、いまだに私は、もうひとりの永山則夫だ。
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