臨床とことば 心理学と哲学のあわいに探る臨床の知
「臨床とことば」 心理学と哲学のあわいに探る臨床の知
河合隼雄 /鷲田清一 2003/02 TBSブリタニカ 単行本 237p
Vol.2 975★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
限られた期間とはいえ、トランスパーソナルの「理論家」と目された一人がケン・ウィルバーだったとするならば、日本におけるトランスパーソナルの中心的な「実践家」の一人が河合だ。すでに亡くなっており、残された業績を体系化しなければならないとする中沢新一などの想いとはうらはらに、一体、河合隼雄は体系化されることによってどのような益があるのであろうか、という疑問も湧く。
カウンセラー、セラピスト、ヒーラー、臨床実践家、心理臨床家、などなど、さまざまな呼称があれど、もし河合が、教育学や病理学の範囲内にとどまる存在であるとするなら、当面、当ブログの「ブッタ達の心理学」をめぐる冒険からは距離が発生することとなる。
現在の当ブログの眼目は、カウンセラーは「マスター」として存在し得るかどうか、というところに来ている。もちろん、それぞれの職業倫理で縦横に縛られているのであり、一概に可能性のみを問うことはできないし、可能性があったとしても具体例がなければ、その益にあずかることはできない。
だから、率直に言って、河合隼雄は、中沢新一いうところの熟練技術者マイスターという概念を通り過ぎて、精神的支柱たるマスターとして存在していたのかどうか、ということをすこしおっかけてみたい。もちろん、あわせてマスターとは何かを再考していかなくてはならない。
河合 トランスパーソナル学会を1983、4年だったか、日本でやったことがあるんですよ。日本の人は皆トランスパーソナルだと思ってきたら、出てくる学者が皆コチコチでしょ。日本人はどうなっとるんやと言うから、日本の学者はこうやねんと言ってあげました(笑)。日本の伝統的なカルチャーはトランス・パーソナルやとすごく思ってるんだけど、それを否定することによって学問ができると思っているから、こういうことが起こるんや、と説明したんやけど、彼ら、すごくビックリしたみたいで。p51
当ブログにとっては、この発言はそれなりに重い。
1)2003年の段階で、20年前の京都における学会について語るほど記憶しているということ。
2)たぶん他でも語っているのだろうが、すくなくてもここに当時の会議について、このようなフランクな発言が残されているということ。
3)トランスパーソナルという言葉を2003年の段階で、まだ使っているということ。
4)日本の文化の中のトランスパーソナル状況を語っていること。
5)日本のアカデミズムについて語っていること。たしかにアカデミズムで語られている心理学というのは、堅苦しくて、どうも面白くない。
6)そして、この口調から醸し出される人好きしそうな雰囲気。
河合 アメリカで「What is I?」という講演をしたんですよ。あなた方「Who am I?」というのは得意で「I'm a psychologist」などと答えるけれど、「What is I?」と聞いて、答えはほとんどわからないでしょう。で、「I」というのはあなた方が考えているほど簡単なものではないという話をしたんです。
鷲田 パスカルに、まったく同じ問いがあります。私とは何か。「誰か」じゃなしに。
河合 わぁ、そうですか。はぁ、それは知らんかったなあ。
鷲田 パスカルは相当な皮肉屋だから、たとえば「あなたは身体か?」、違うだろう、誰かが「あなたは美しい」と言ったって、ペストにかかれば容貌もすっかり変わってしまうだろうけど、それでもあなたはあなたなわけだろう。心か? 心じゃないだろう? あなたは記憶力がいいとか計算ができるという、そういうことで他人に愛でられたりしたって、もの忘れがひどくなたり、ショックのあまり人格が変わることもある。それでもあなたはあなただろう、というふうに言っていくんです。
そして最後に「あなたを作っているのは、結局のところ借り物ばっかりじゃないか」、つまりそのときの能力であり、この世でたまたま持っている身体とか、借り物ばっかりじゃないか。そこ以外にあなたはないじゃないか。そうしたら、世の中で、地位があるとか美人であるとか、借りものだけ尊敬されている人をバカにしたらあかんよ、と最後に言うんです。ほんとうはそんなの虚しいよと言いたいんですけど。
河合 それが仏教だったらまさに、初めから色即是空、自性はないというんですからね。ないことから組み上げていくんだから、まったく逆ですよね。p52
当ブログでは、池田晶子の「私とは何か」をわざわざ「私は誰か」と言いなおしたところだった。もっとも、Oshoセラピーにおいても、「Who am I?」が、「Who is in?」と、言いなおされているとも聞くし、結局はここでのパスカルの意図どおりに問いかけが進行していくとすれば、問いの言葉そのものは、どの表現を使ってもいいだろう。とにかく、ここでマイスター河合は、第1の問いかけをしている。
河合 これまでで、僕は最大の誉め言葉いえると思ってるんですけど、ある波乱万丈の女の人がやってきたんですが、とてもみめ麗しいお洒落な人だったんです。その人は5、6年かかってよくなってきた。ありがとうございました、とお礼に来たときに、僕に一番最初に会ったときのことが忘れられないと。本当に不思議でしたが、先生は私の顔にも服装にも全然注意をしておられなかった、と言うんですね。きれいな人がきれいな服着ているわけですからね。先生は、私の言うことにも全然注目していませんでした。そんなん全部捨てて、もし魂があるのなら、それだけをじっと見ておられました、と。
鷲田 ゾクッとする言葉ですね。
河合 ねぇ。最高の誉め言葉。その人はぼくのところに来るまでに、あちこち相談に行っているから、体験しているわけですね。そうするとたとえば、恋人の話してたら「えっ」とか入ってしまういうのあるでしょう。
鷲田 「魂を見ていらっしゃる」って、掴まれているってことですね。
河合 最大の誉め言葉でしょうね。p87
ゾクっとする。マイスター河合は、ここで第2の質問、「魂はどこにあるか?」という問いを、存在として発している。
河合 子どもが「5月5日に死ぬ」と言っているわけで、親に「それは大変ですね。一緒に考えましょう」と言ったとするでしょう? するとそういう親は「あの先生は頼りにならない。考えようというてはるだけや。それで心配で心配でたまらない」と考えて、その親はもう僕のところへ来なくなるわけですよ。それで、どこかの拝み屋さんみたいなところへ行って「大丈夫です。私が拝んだら絶対に治ります」などと言われら、そっちに行ってしまう。それはまた困るわけですね。
鷲田 なるほど。どっちも困るわけですね。
河合 だから「こっちへつながっていながら、心配する」という程度の関係が大事なんです。それがものすごく難しいわけですよ。人によって全部違いますからね。だから「この人の場合は、ここまで言わないとまずい」とか、それはその時々の判断で変えていくわけですね。その時に単純に安心させたほうがいいとか、それから、心配させるほうがいいとか、そういうセオリーだけでは駄目なんです。そのへんが現実にはものすごく難しい。p128
「マイスター」河合に学ぶべきことは多い。「いかに死ぬべきか」という第3の問いに、もっとも集中している。ただ惜しむべきは、教育学や病理学からの臨床なので、今後、そこから離れた、「マスター」河合を発見してみたいものだと思う。
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