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2010/02/26

トランスパーソナル・セラピー入門 <2>

<1>よりつづく 
トランスパーソナル・セラピー入門
「トランスパーソナル・セラピー入門」 <2> 
吉福 伸逸 (著) 1989/10 単行本: 317p 平河出版社
★★☆☆☆ ★★★★★ ★☆☆☆☆

 この人物が1989年に日本を逃げ出したことを確認したところで、あらためてこの本を引っ張り出してきて、埃を払ってパラパラっとめくってみると、これまでの印象がさらに深まったばかりか、かわいそうにさえなってきた。

 当ブログは現在、目下の眼目である「ブッタ達の心理学」というカテゴリに向けて、ケン・ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」を批判的に読もうとしている。そのプロセスにおいて、日本のウィルバー本、約20冊のうちの4冊の翻訳に関わったこの人物について、再読しているところである。

 心理学とは言え、当ブログは「意識をめぐる読書ブログ」という自己認識以上の立場を持ち得ていないので、あくまで、その路線の中で「読書を楽しんでいる」という以上のものではない。実践的な心理学として存在しうるかどうかは別次元の問題である。ただ、もとより、読み手の私が、読書ブログというコンテナ+コンテンツから離れて、それ以外のなにごとかをなし得るという可能性は否定しないでおく。

 この本の悪質さは、前回<1>でなぞっておいたから繰り返さない。それにつけても、再読してみて、あらためて私は著者に対して憐憫の情さえ覚えた。なんでまた、ここまで自分を追い込む必要があったのかな、と。以下、今回の印象だけを箇条書きにメモしておく。

1)この本を科学として読むことはできない。もちろん心理学としても読むことはできない。もし読むことが可能だとするなら、フィクションとして、小説や物語としてなら読める。あ~、そういうお話を君は考えたのね、なるほどね、と言うことはできる。

2)しかしながら、たとえば村上春樹のような、最初から「プロの嘘つき」を自認するような小説家なら、外に実在するキャラクターや人物に依存しないで、自ら、あらたなる世界を創造する必要がある。独自の世界観を自らの力で打ち立てる必要がある。

3)しかるに、この人物は、虚実をないまぜにして、ごちゃごちゃにしながら文章をすすめてしまったために、実に魂に対する犯罪的な行為を行ってしまっている。このような行為ができたのは、日米欧に渡る彼の行動領域の広さとあいまって、膨大な読書量と読力があってこその賜物ではあるが、その立場、その才能を悪用してしまっている。

4)インターネットが発達した時代なら、このような犯罪的書物が登場する機会は少ないのではないだろうか。たとえば、皿洗いをしながら大英図書館に通って読書を重ね「アウトサイダー」を書いたコリン・ウィルソンや、医学部を中退して、通信販売で書籍をかき集めて「意識のスペクトル」を書いたケン・ウィルバーのような立場を、現在、インターネットと公共図書館ネットワークを利用すれば、ほとんど、誰もが得ることができる。できないまでも、その道は開かれつつある。

5)つまり、本を書く才能があるかどうかはともかくとして、情報量としては、もはや、現代人は、だれもがコリン・ウィルソンにもなれるし、ケン・ウィルバーにもなれる時代であるということを強調しておきたい。かつての読書も造本も一部の特権的な立場にあった人々によって牛耳られてきた時代のなごりの最後において、この本が書かれた、という印象を強くもつ。

6)1989年という時代は、まだインターネットが発達しておらず、著者のような情報は、それこそ著者のような「紹介者」がいなければ、なかなか伝わらない環境下にあった。だから、変だなぁ、と思いつつも、それらの「紹介者」たちの著書をまずは購入し、ゆっくり読み説いていくしかなかった。だから、「紹介者」たちは、そこの点を自任し、自重して、表現しなければならなかったはずなのである。

7)しかるに、現在読みなおしてみたとしても、実に全体が恣意的に書かれており、結局は、トランスパーソナルとは言いながら、理論としてのケン・ウィルバー、実践としてのスタニスラフ・グロフの過呼吸セラピーを紹介しているにとどまっているのだ。しかも、それもあくまでも著者の限界ある理解力の範囲内だけの領域にとどまっている。

8)100歩譲って、それを自ら責任を持って実行していくならまだ許せる。しかるに、この人物はこの本を最後にすたこらサッサと日本から逃亡したのだ。まるで、誰かさんをナンパしておいて、相手もなんだかその気になってしまって、パンツを下げたところで、どうしたことか、この人物は、すたこらサッサと逃げ出してしまったのである。あ~、自信がなかったのかな、自分自身に対して。

9)この本はなぜに書かれたのだろうか。なぜこの時点で「入門書」を書いたのだろうか。それは自ら率いていたグループC+Fの後輩たちに、「まぁ、君たちはこれでも勉強して、せめて早く僕くらいの理解のところまで来てよネ、それまで、僕はハワイでサーフィンでもやってるわ」、というくらいの乗りだったのではないだろうか。

10)ケン・ウィルバーについても、スタニスラフ・グロフについても、トランスパーソナルとやらについても、あるいはニューエイジやセラピーとやらについても別個検討しなおす必要がある。が、それにつけても、この人物の脚色や方向付けは丁重に排除していかなくてはならない。

11)なぜ、そんなことが起こってしまったのか。それもこれも一重にこの人物の無意識、無自覚にある。覚醒していないのである。だからそういう「ゴミ」をばらまいてしまったのだ。人を怨まず、「無自覚」を怨もう。

12)さて、ここまで言ってしまえば、当ブログの「責任」も重くなる。それだけ自覚して進むことができるのか。いやいや、逆である。自覚して、足元を注意しながら、視線をさらに上げながら、自らの旅を進めるとするならば、この人物の、この書についてこそは、徹底的に、批判的に、対峙しておかなければならないのである。

<3>につづく

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