2011年新聞・テレビ消滅<1>
「2011年新聞・テレビ消滅」 <1>
佐々木俊尚 2009/07 文藝春秋 新書 237p
Vol.2 986★★☆☆☆ ★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆
えっ、もうとっくに当ブログでは、IT関連の本などは読まないと宣言したばかりではないですか。いまさら、また、この手の話に戻るの? と、われながら、もんどり返るような気分になる。しかしながら、この本だけは、ちょっと違う。
著者の本は、すでに何冊か読んだ。初期的にはこの人の本がサブ・メインであったとさえいえる。しかし、ある時期から、当ブログとはどんどん距離ができて行った。
もともと、当ブログは、新聞記事で梅田望夫の「ウェブ進化論」のことを知り、それを読んで感想を書き始めたのが、きっかけだった。そして、いつの間にか私は新聞を読まなくなって、それももうすでに3年近くが経過する。
まもなくテレビも地デジとやらに全面転換しなくてはならないらしいが、うちはアンテナだけは地デジ対応にしたが、テレビ本体は買い替えず、コンバーターだけで済まそうとしている。大体において、そんなにテレビは見ない。
グーグルの及川卓也氏は、これを「コンテンツ」「コンテナ」「コンベヤ」という三つの層(レイヤー)に分けて説明している。コンテンツは記事そのものでコンテナはそれらの記事を運ぶ容器、そしてコンベヤは容器のコンテナを配達してくれるシステムだ。新聞で言えば、
コンテンツ=新聞記事
コンテナ=新聞紙面
コンベヤ=販売店
ということになる。これまでもメディアをコンテンツとコンテナという二層に分けて説明することは多かった。及川氏はここにコンテナを運ぶコンベヤという新しい概念を持ち込んで、三層モデルにした。いずれもCからはじまる語呂の良い言葉で、「3Cモデル」とでも呼ぶべきだろうか。p31「第二の波・プラットフォーム化」
今回、異例な形でこのIT関連の本に登場してもらったのは、一にも二にも、この記事のところにある。コンテンツ、コンテナ、コンベヤ、とはなるほどよくできた3Cモデルだ。当ブログの3Cモデルと相対させてみようと思ったのが始まりである。
ところが、どうもうまくない。コンベヤとコンシャスネスでは、どうもまったく意味が違うではないか。それにコンテンツとコンテナの順番が逆になっている。ここであらためて、これはいわゆる発信側の3Cモデルであることが分かってきた。
受信側としての当ブログの3Cモデルは
コンシャスネス ← コンテンツ ← コンテナ
の順になっている。しかるに、発信側の3Cは
コンテンツ → コンテナ → コンベア
となっているのである。
つまり、ここでのお互いの3Cモデルは、方向も目的も、かなり違ったものになっている。コンべアとコンシャスネスを対応させるどころか、まったく逆の対極に位置する方向に離れていっている。著者たちの発信側の論理と、受信側としての、当ブログの論理が、現在のところ、噛みあうはずがないのだ。
当ブログは現在「意識をめぐる読書ブログ」と銘打っている。ネットというコンテナの中から図書館コンテンツを引き出して、意識コンシャスネスに何事かを得ようとしている。これはこれでいいのだ。「読書」という作業を中心としているかぎり、これはこれでいい。現在はネット上におけるin isolationの状態で、「in silence」のバッチを胸につけて、アシュラムの中をふらついているようなものだとご理解いただければ、大変ありがたい。
しかし、ネットには「受信」能力もあるが、「発信」機能があることも忘れてはいけない。現在は読み手としての意識しかなく、ブログで書いていることもほとんどモノローグだ。ダイアローグとはまではいかないまでも、何事かを発信しようとするなら、上の、コンベアを交えた発信側の3Cモデルもキチンと意識する必要があるのではないか。つまり、当ブログにおいては、いずれは「4Cモデル」としてキチンと整理していく必要を感じたのである。
ただ、現在の当ブログは、3Cモデルどころか、「コンシャスネス」の一本立ちを狙っている。まさに「1Cモデル」構築のために、日々研鑽しているのである(笑)。まぁ、そう長くは続かないだろう。せいぜい、この「ブッタ達の心理学3.0」が終了する頃には、4Cでも5Cでもドンと来い、という気分になるやも知れない。
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