グル・グランダ・サヒブ OSHO「私が愛した本」 <50>
<49>からつづく
「私が愛した本」 <50>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
「グル・グランダ・サヒブ」
2番目はシークの本「グル・グランタ・サヒブ」だ。これはひとりの人間によって書かれたものではないので、私にはその著者の名前をあげることはできない。これは代々編纂を重ねてきたものだ。それはあらゆる源泉から編集された。世界中にこんな本はほかにない。
「旧約聖書」はユダヤ教の聖典に過ぎない。「新約聖書」はキリスト教の聖典にすぎない。「バガヴァッド・ギーター」はヒンドゥ教の聖典にすぎない。「法句経(ダンマパダ)」は仏教徒の聖典にすぎない。「ジャイナ・スートラ」はジャイナ教徒の聖典にすぎない。だが、「グル・グランダ・サヒブ」は、ありとあらゆる源泉から採られた世界で唯一の本だ。その源は、ヒンドゥ教からも、イスラム教からも、ジャイナ教からも、仏教からも、キリスト教からも来ている・・・・このおおらかさ。いささかの狂信もない。
タイトルの「グル・グランダ」とは、「祖師たちの書」、あるいは「師の書」を意味する。その中にはカビールも、ナナクも、ファリドもいる。さまざまな伝統、さまざまな学派に属する神秘家たちの長い列がある。あたかも何千という川が海で出会っているようなものだ。「グル・グランダ」は、海に似ている。
ナナクのの文章をひとつだけ訳してみよう。ナナクが開祖だ。だからもちろん彼の言葉は「グル・グランダ」に編集されている。彼がシーク教徒たちにとって最初の導師だった。それからほかの9人の導師たちの列が後に続く。シーク教は10人の導師たちによって創られた。これはめずらしい宗教だ。なぜなら他の宗教はどれも、ただひとつの導師によって創られたものだからだ。
ナナクは言う。
「真理、究極の真理は語りえない。だからどうか私を許してほしい。私はそれについては話すまい。ただそれを歌に歌おう。音楽の言葉を理解できるなら、それはおそらくそのハートの琴線に触れるだろう。その明りの伝承は、言葉を超えている」と。
「グル・グランダ・サヒブ」・・・・シーク教徒たちがこれを「サヒブ」と呼ぶのは、彼らがこの本を、あたかもそれが生きてでもいるかのように、それが師の霊そのものであるかのように崇めているからだ。
だが本は本だ。そしてそれぞれの師が立ち去るやいなや、その本は死ぬ。その言葉は死んでしまう。だから彼らは、まさにほかのすべての宗教と同じように、美しい死体を運んでいるのだ。ついでだが覚えておきなさい。宗教とは、ほんの一瞬、ひとりの導師の臨在の下でのみ生きているものだ。その導師がいなくなれば、それはひとつの信条(グリード)になる。そして信条とは醜いものだ。
(中略)
「グル・グランタ」は、10人の生きた導師たち、10人の光明を得た人たちの言葉を編纂したものだ。ほかのどんな本も、これと比べることはできない、と言おう。それは比較を絶している。ナナクは言う。「エク・オムカール・サダナ---真理はひとつしかない。その名前を言い表すことはできない」と。東洋ではそれはオムカールと呼ばれる。オム---ただひとつ真理であるもの。無音の音、音が消えた後、そこに広がる沈黙・・・・エク・オムカール・サダナ。OSHO「私が愛した本」p90
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