ナラダ・バクティ・スートラ OSHO「私が愛した本」 <42>
「私が愛した本」 <42>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
ナラダ「バクティ・スートラ」
2番目は、ナラダの「バクティ・スートラ」だ。ナラダは、バーダラーヤナのちょうど反対だ。そして私は、是非このふたりを並べておきたい。ナラダとバーダラーヤナを同じ部屋に入れて、ふたりの間に何が起こるか単しみに見ていたいものだ。ナラダはいつも糸が一本しかない楽器、一弦琴(エクターラ)を持ち運んでいた。エクは一を意味し、ターラは糸を意味する。ナラダはいつもそのエクターラを持って、それを弾き、歌い、踊っていた。
バーダラーヤナは、これにはまったく我慢できなかっただろう。私はあらゆる種類の人びとを我慢できる。バーダラーヤナならナラダを怒鳴りつけ大声をあげたことだろう。ナラダは、バーダラーヤナの言うことなどきくような男ではない。彼なら、バーダラーヤナを苛立たせるためにもっと大きな声で歌い演奏を続けただろう。私は、ふたりが同じ部屋にいるところを見て、大いに楽しんだに違いない。2番目の本にナラダの「バクティ・スートラ」を選んだのはそういうわけだ。
その経文(スートラ)は「アタト・バクト・ジギャーサ---今こそ愛の探求を・・・・」で始まっている。愛の探求こそ最も大いなる探検、最大の探求だ。他のものはすべて、原子エネルギーでさえそこまでは届かない。アルバート・アインシュタインのような力量を持った科学者になったところで、愛を知らないかぎり、真の探求がどんなものかを知ることはない。それも愛だけでなく、愛プラス意識だ・・・・。そうすれば、それは愛の探求になる。この世で最もむずかしい仕事だ。
くり返させてほしい。それがこの世で最も困難な仕事だ---意識をともなった愛。人は愛に落ちる。人は愛の中で無意識になる。その愛は生物学的なものにすぎない。それは引力だ。人は大地に引きよせられる。だがナラダが語っているのは、それとはまったく別の愛だ。瞑想としての愛、意識としての愛だ。あるいは、科学的な言い方をするなら、引力に対抗する浮力としての愛だ。引力(グラビテーション)など墓(グレーブ)にまかせておけばいい。浮上しなさい。昇るのだ! そして、人が愛するために上昇し始めるとき、星に向かって飛び始めたとき、それが「アタト・バクティ・ジギャーサ」だ。
みんな何をそんなに心配している? 私は悪魔が大好きだ---悪魔には仕事をさせておきなさい。好きなだけ騒がせておけばいい。私に関するかぎり、彼らには邪魔はできない。そしてお前たちはといえば、お前たちはもう邪魔をされている。連中にこれ以上何ができる? だからすべてはまったく申し分ない。これがあるべき姿だ。
私はナラダの本をこの上もなく愛してきた。私はこの本について話したことがあるが、英語でではない。英語は私の言葉ではないし、何よりもあまりにも科学的、数学的、現代的だ。ナラダのことはヒンディ語で語った。ヒンディ語は私の母国語であり、その方が容易に歌うことができる。その方が私のハートに近い。
私の教授のひとりは、「愛を語ることと喧嘩は外国語ではできない」とよく言っていたものだ。
喧嘩となれば、自分のハートの言葉を話したくなる。愛を語るとなったら、これはもっとだ。喧嘩にもまして深みが必要になるからね。
英語で話せば私はまちがった話し方をせざるをえない。私にとっては二重の仕事なのだから。私はいまだヒンディ語で話して、それを英語に翻訳している。きつい仕事だ。ありがたいことに(サンク・ゴッド)に、直接英語で話すことはまだ私に起こっていない。神(ゴッド)が存在しないことをおぼえておくこと。神は、我々が誰かに感謝できるようにするために創られたものにすぎない。私がナラダについて話したことを誰かが翻訳してくれるといいのだが。
英語では話していないことで、やむなくヒンディ語で話していることはたくさんある。英語で話すのは不可能だったからだ。そしてその逆もある。ヒンディ語で話せないたくさんのことを、私は英語で話した。これまでの私の仕事はいくぶん変わったものだった。私の本がすべてヒンディ語から英語へ、また英語からヒンディ語へ翻訳されたら、みんはは今よりもっとまごついて、もっと分からなくなるだろう。私は大いに笑うだろう。
肉体の中にいようがいまいが問題ではない。大いに笑ってやる。どこにいようが約束する。この宇宙のどこかにはいるにちがいない。戸惑い、混乱し、頭をかかえて信じられなくなっているお前たちを見ながら。何しろ私はこのふたつの言語で、それぞれ別の次元を話してきたからだ・・・・。私が英語で話すことを選んだのは、ヒンディ語ではどうしても表現できない次元があるからにすぎない。OSHO「私が愛した本」p55
日本人の私は、ヒンディ語→英語→日本語、と翻訳されてきたものを読んでいる場合がある。ただ、ヒンディ語にされる前に、言語化され得ない領域があり、また、どんなに翻訳スタッフチームが上手に訳してくれても、私の注意力散漫な理解力では、簡単に見逃してしまう領域もあるだろう。
やはり、この「インド編」は、単に、日本語や英語に翻訳された本を探しだした、という喜びだけでは到達しえない領域に足を踏み入れてつつある、ということである。それでもなお、このように文字化されているところに、なにかがあるかもしれない、という探求心を起こさせてくれるだけ、ありがたい、と言わざるを得ない。
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