グランタ OSHO「私が愛した本」<58>
<57>からつづく
「私が愛した本」 <58>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
「グランタ」
6番目。私はいつも、著者が分かっていないある本を愛してきた。それがカビールの弟子によって書かれたということは知られているが、著者は匿名だ。誰が書こうが問題ではないが、誰にしろ書いた人は光明を得ていたに違いない。それだけは何のためらいもなく言うことができる。
それは小さな、きわめてつたない詩集だ。おそらくその人は、あまり教育を受けていなかったのだろう。だがそんなこともどうでもいい。問題はその中味だ。そうだ中味が問題だ・・・内容が。その本は出版さえされていない。自分たちの財産としてその本を持っている人々が、出版に反対しているからだ。そして私にはその人たちの感じが理解できるし、また彼らに完全に同意する。
出版されれば、本は世間の一部になるから、自分たちはそれを出版したくないという。その本が欲しいという者があれば、行って、それを自分の手で書き写すことができる。だからインドにはたくさんの写本がある。だが彼らはみんなそれを出版しないと約束している。出版は、確かに本に何かをする。本は機械的なものになる。それは印刷機の中を通り抜けている間に何かを失う。それはその精神を失う。本は死体として出てくる。
この本には名前がなかった。一度も出版されたことがないから、タイトルは必要なかった。私は、その原本を持っている人たちに、「あなたたちはそれを何んと呼んでいるのか?」と尋ねた。
「グランタ」と彼らは答えた。
さて、「グランタ」という言葉をみんなに説明しなくてはならないだろう。それは本が紙ではなく、葉っぱに書かれていたころからの古い言葉だ。ある種の葉っぱは文字を書くことができ、そういう葉っぱを綴り合わせたものは「グランタ」と呼ばれる。「括ること」というのが「グランタ」の正確な意味だ---「葉っぱを括ること」だ。
その本には、この上もなく勝ちのある言明がいくつかある。2、3みんなに紹介しよう。ひとつ。
「言葉で言い得ることは気にするな。それは真理ではありえない。真理は言えない」とそれは言う。二つ目。「神とは言葉に過ぎない---意味は深いが、存在はしない。神とは、ある体験を表す象徴に過ぎない。客観物ではない」と。三つ目。「瞑想(メディテーション)とは、心想(メンテーション)ではない。それはマインドがするものではない。逆に心を落とすことが瞑想だ」と。そういったようなことだ。私が「グランタ」を挙げておきたかったのは、それがどこでも触れられておらず、また一度も翻訳されていないからだ。OSHO「私が愛した本」 p173
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コメント
☆小森さん
たしかにこのタイトルで検索する英書がヒットしますね。近くの大学図書館ではSRI GARIB DASでは100以上の文献がヒットするのに、HARYANA'S SAINT OF HUMANITYだとヒット0です。もうすこし丁寧に見れば、どこかに隠れているかもしれません。
もっとも、ここでの要点は、出版をされることを拒絶している本がある、ということで、それらもまた貴重なものであると記憶しておくことも大切だ、ということでしょうね。
投稿: Bhavesh | 2010/03/16 23:13
この本は、タラン・タランと並んで入手がもっとも難しい本ですが、
以下の書籍に、完本ではないですが、「グランタ」の文章が掲載されています。
K.C.Gupta
"SRI GARIB DAS; HARYANA'S SAINT OF HUMANITY"
投稿: 小森 | 2010/03/16 21:52