ダヤバイ歌集 OSHO「私が愛した本」<59>
<58>からつづく
「私が愛した本」 <59>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
「ダヤバイ歌集」
10番目。私が今話そうと思っている10番目の本は、またもや、いわゆる宗教書ではない。それは瞑想してこそ、初めて宗教的になるような本だ・・・・読むのではなく、瞑想してこそ。それはまだ翻訳されていないので、ヒンディ語の原書しかない「ダヤバイ歌集」だ。
ラビアや、ミーラや、ラーラや、サハジョに触れておきながら、それ以上に触れる価値のあるひとりの女性ダーヤだけ放っておいたことを、私は若干申し訳なく思っていた。これでほっとしたよ・・・・「ダーヤの歌」だ。
彼女は、ミーラやサハジョの同時代人だが、このふたりよりもはるかに豊かだ。この女性には番号はつけられない・・・・。
ダーヤはちょっとした郭公だ。だが心配はいらない。実際インドでは、郭公はコヤルと呼ばれる。そしてそれには気が狂っているという意味はない。ダーヤはほんものの郭公だ・・・・狂っているのはではなく、インドのコヤルのような甘美な歌い手だ。インドの夏の夜の・・・・遠い郭公の呼び声、それこそがダーヤだ・・・・この世の暑い夏の最中での遠い呼び声だ。
私はダーヤについて話したことがある。多分いつか、その翻訳が可能になるだろう。だがそれはありえないかも知れない。というのも、どうやってああいう詩や歌を翻訳できる? 東洋は純粋な詩だ。ところが西洋とそのあらゆる言語は、すげて散文、純粋な散文だ。私は英語で書かれたほんものの詩に出会ったことがない。ときには私も西洋音楽の偉大な古典を聴くことがある・・・・先日、私はベートーベンを聴いていた。だが途中で止めなければならなかった。
一度東洋音楽を聴いたら、それに比べられるものなどない。一度インドの竹笛を聴いたら、他のものはすべて平凡だ。だからこういう、私がヒンディ語で話した歌い手や、詩人や、狂人たちが、いつか翻訳されるかどうは分からない・・・だが私は彼らの名前を挙げずにはいられない・・・もしかしたら名前を挙げることが、彼らが翻訳されるためのきっかけになるかも知れない。OSHO「私が愛した本」 p179
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