「心の専門家」はいらない <2>
<1>よりつづく
「『心の専門家』はいらない」 <2>
小沢牧子 2002/03月 洋泉社 新書 218p
★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆
同じ著者の「心を商品化する社会」(共著)とともに、忘れてしまってはいけない一冊と言える。「マズローの心理学」を読んだ時も、ちらっと彼女たちのことを思い出した。この本をここで再読して、当ブログとして確認しておくべきことはいくつかある。
1)当ブログが現在ターゲットを絞り込み中であるZENマスターとは、教育学や病理学から一線を画す位置にあるべき存在である。また、技能的に必ずしもゼネラリストであることを求められるわけではない。
2)診療臨床家の資格の法制化がこの本のテーマのひとつになっているが、ZENマスターとは、法制度のなかに組み込まれるような存在とは言えないが、法的な立脚点や、技能の公開性、透明度が高いことが求められる。
3)そもそもクライントありきでZENマスターを考えるのではなく、単独で、誰にも知られずに存在する可能性を残す。あるいは、クライエントは、一体、なにを求めているのかを絞り込む。教育学、病理学的解決策を求めるクライエントを、とりあえず、この段階では外して考える。
4)テーマとすべき問いかけは、「私は誰か」、「魂はどこにあるか」、「いかに死ぬか」の三つに、限りなく絞り込む。そして、安易な解決策はとりあえず用意されてはいないことを、クライエント、ZENマスターともに確認しておく必要がある。
5)求められているものは、フィクションや、薬物使用を前提とするような変性意識を必要とするものではなく、象徴的言えば、現実に、この地球の上に二本の足で立つことができる、個々の地球人に益するものであるべきである。
6)用語を作ったり、メタファーを活用することは構わないが、それらをやがては不要とする道をあらかじめ用意する。技能は技能としてあるが、その技能は固定的なものではなく、流動的かつ並立的である可能性がある。
7)これはあくまでも「意識をめぐる読書ブログ」としての今後の読書のテーマを求めているだけであって、これらの興味や関心を満たしてくれるような、面白い本はないかしらん、という程度の個人的な嗜好性である。
学校や病院、あるいは産業の場や、介護施設など、隣接する分野はさまざまあるが、当ブログでいうところのZENマスターは、もうちょっと佇まいが違っているところに存在する。そして、もしその姿に妥当性があるのなら、現在のいわゆる「心の専門家」たちとの差異はどこにあるのかを、あらためて検討してみたい。この本を読みながら、そんなことを考えていた。
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