三位一体モデルTRINITY <2>
<1>よりつづく
「三位一体モデル」 TRINITY<2>
中沢新一 2006/11 東京糸井重里事務所 /ほぼ日ブックス 赤瀬川原平 (イラスト) 単行本 p104
たまたま50人程度の前で中沢が行ったレクチャーが大受けしたために、洒落と悪乗りでできてしまったような一冊と言っていいのかもしれない。しかし、そこで「遊んで」いるのは、当代一流の「遊び人」たちであってみれば、なるほど、その「遊び」の中に、冴えた「粋」がないでもない。
だが、本当か! という突き詰めた、醒めた、冷ややかな、まったく地平の違ったところからの、一読者としての視線を向けると、この本は、やっぱりおかしい。
この「モデル」というタイトルは、編集スタッフがつけたようであり、中沢本人は「三位一体模型」を主張したようである。いずれにせよ、講演者は必ずしも、こういう形で本になることを予想もしていなかっただろうし、期待もしていなかったようだ。
敢えていうならこの本が誕生したのは、その「芸術人類学研究所 青山分校」とやらの、糸井重里一派が、この講義のなかから、自分たちの「飢餓感」を潤すべきなにかを必死になって探し出そうとした衝動から生れた一冊と言っていいだろう。
彼ら広告産業、とくにコピーライティングなどの場合、「父」としての広告主のクライエント、そして「子」としての代理店が、一体自分たちにとっての「霊」とは何かを探しだそうとしているのであり、結局はこの三位一体モデルの中に、ブランクのマスを作って、さぁ、そこに何が入ればいいのか、あれこれ文字をはめてみようと、「遊んで」いるにすぎない。
本当にそれでいいのだろうか。
先日久しぶりに、佐々木俊尚の本を読んだ。彼の最近のお気に入りの三位一体モデルは、「コンテンツ」、「コンテナ」、「コンベア」である。限りなく下降線をたどり、インターネットITの発達によって、情報はどうなっていくのか、という話題を限りなく、物質化、モノ化の方向へと持っていこうとする。これは悪しき「三位一体モデル」の使用例であり、物事の打開策にはなりようがない。所詮はどん詰まりである。
それに比して、梅田望夫は、最近著の中で、「コンテナ」、「コンテンツ」、の上に、なんと、「羽生善治」を持ってくる。こちらも、方向性はまちがってはいないものの、他のふたつに比べたら、いかにも偏狭で、とってつけたような、あてがいものである。
その本のタイトルは「シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代」2009/04。読むには読んだが、こちらの<2.0>に書き込むのはあまりに流れが悪いので、しかたがないので、緊急避難的に<1.0>にメモは残しておいた。彼が現在模索しているのは、当ブログでいうところの「コンシャスネス」。しかし、それは、天才、とか、ハイソ、とか、一流、などという概念でごまかしているだけであり、こちらも先行きあやしい。
そもそも、三位一体モデルは、いわゆる「思考モデル」なのであり、「思考」が持っていける世界に限界があるとすれば、それを超えていく概念が必要となるのである。思考をどのように回転させるか、ではなく、思考をどのように終わらせるか、思考をどのように落とすか、というところに向かわないことには、この三位一体モデルの本当の意味はない。むしろ、足かせとなる。つまり、この三位一体は、どれか一つが肥大して二つを内包していく必要がある。 そしてやがては、一円相へと向かう、というプロセスを経ないでは、完結しないことになる。この図式を使ったほうが、はるかに三位一体から、一円相、無、へとつづく円環が分かりやすい。経済にしても、宣伝業界にしても、それぞれの「あせり」はわかるが、とってつけたような、にわかの「三位一体モデル」ゲームでは、業界人の「思考」遊びにはなっても、究極の詩にはならない。
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