ファミリー・コンステレーション創始者バート・ヘリンガーの脱サイコセラピー論
<1>よりつづく
「ファミリー・コンステレーション創始者バート・ヘリンガーの『脱サイコセラピー論』」
バート・ヘリンガー /西澤起代 2005/10 メディアアート出版 単行本 249p
★★☆☆☆ ★★☆☆☆ ★★☆☆☆
この本の英語版のタイトルは「Acknowledging What Is」という。英語の苦手な私には、よくこのニュアンスがつかめない。Google翻訳では「何かを認め」となる。エキサイト翻訳では「承認して、何がありますか?」となる。まぁ、直訳的には、そういうことなのだろう、とAcknowledging するしかない。だが、すくなくとも、英語が苦手な私でも、ここから「脱サイコセラピー論」というところまで持っていくのは、かなりしんどい。
どうしてこのようなタイトルの本ができあがったのだろうか。へリンガーはサイコセラピーを脱せよ、と言っているのだろうか。それとも新しく「脱」とかいうサイコセラピーを開発したのだろうか。仮に、サイコセラピーを「脱」っせよ、という教えだったとしても、サイコセラピーを超えて行け、というニュアンスがどうもつかめない。
むしろ、サイコセラピーという概念を使いながら、そのサイコセラピーをやんわり否定することで、一つの自らの存在する位置づくりを探っているような、狡猾なニュアンスが伝わってくる。これは当然、著者の意図ではなく、翻訳者の意図であろうから、ひょっとすると誤訳、ということにもなろうかと思う。この本全体に、無意識から超意識へ、という方向性が見えているわけでもない。
私自身確実に心理療法から多大なる恩恵を受けてきました。ほとんどすべての心理療法は、もともと経験から発達してきたものだということを忘れてはいけませんよ。
フロイトの洞察は今日でも基本です。しかし、さらに、様々な分野において発達してきています。彼の手法の枠内に留まっている人は現在おそらくいないでしょうが、だからといって彼の洞察に価値がないわけではありません。それらは今でも心理療法の基礎であり、起源であり続けています。p135
へリンガーがそう言ったとしても、まだまだ「彼の手法の枠内に留まっている人」は、少なくとも日本なら、北山修などという姿を借りて存在している。さまざまな手法があり、さまざまな技法が開発されつづけるなら、古いものも新しいものもいろいろ出てくるのはあたりまえだろう。そして、それらをすべて統合的にマスターしているセラピストはいないだろうし、クライエントのことを考えれば、むしろそれは必要ないことだ。
さて、現在、当ブログにおいて問うているのは、セラピストはZENマスターになりえるか、否か、ということである。あるいは、ZENマスターへと移行していかなければ、セラピーそのものが瓦解するはずだ、という仮説の検証である。
あたりを見渡すと、地に足がついていない人びとがたくさんいるということに気がつきます。そのような人びとは、仕事に精一杯の力を注いでいる人と比べると、重みがありません。毎朝、牛に餌をやり、そして農場へ出て一日中働く、そんな生活を送っている農夫---この人が持っている重みと、「私は瞑想をしています!」と言う人の重みを比べてください。p91
なるほど、この人の目からみれば、畜産業の人たちには瞑想はいらず、瞑想などにうつつを抜かしているひとは、牧場に行って、牛に餌でもやっていればいい、ということになるらしい。
多くの「ニュー・エージ」の訓練が、ファスト・フードのスピリチュアル版のように私には見えてしまう---長期に渡る準備の必要なしに、あるスピリチュアルな姿の即席の訓練で到達できるとでもいうように。私がここで話しているのは成長のプロセスです。知恵とはただ求めたからといって、現れるようなものではありません。それは、たくさんの充実した行動から育まれるものであり、そしてただ現れるものなのです。それに向かって努力することなく。p108
なるほど、世の中にはいろいろな考えがあるものである。とにかく当ブログは現在のところ両論併記で進もうと思う。しかし、それにしても、ニュー・エイジの「伝道者」を自任する吉福伸逸などというお方は、ゴールデン・ウィークの9日間と、243,000円さえあれば、「本当の自分自身と出逢える」と豪語しているらしいのだが、この考え方を挟んで、両者はどのように対峙することになるだろうか。
真の自己実現は自分の内側からの招聘に従って歩むことで到達します。内側からの招聘とは、それぞれの人が仕えるよう招かれた特別な任務です。それをする人は誰でも実現しています。内的な平和があり、自分の領域において重みがある。職人でも、ビジネスマンでも、百姓でも、母親でも、父親でも、ミュージッシャンでも。フィールドは無関係です。あなたはただ、人生があなたを導くところで実現しなければなりません。それが達成することなのです。
セラピーにおける私の第一のゴールは、クライエントがこのような自己実現に向かう手助けをすることです。p171
さて、この辺はそうとうに微妙な発言だ。まず、この方にとっての自己実現とは、なにかの役割=特別な任務に招かれることのようである。そして、クライエントがそのようになるように手助けをするのがセラピストだという。そうだろうか。当ブログのZENマスターは、クライエントが特別な任務に招かれるように手助けなどはしないのではなかろうか。
私は心理療法をどちらかといえば魂のケアとして理解しています。私がクライエントの魂に何かをし、そしてクライエントは自分の強さとつながる。それはどこか宗教的で、スピリチュアルです。私の前からクライエントが去る時、彼らはより平和で、自分の運命がなんであろうが、それと調和して生きていける。もし私が彼らの運命を私の手中に収めようとするなら、私はおそらく心理--資本家でしょう、ある意味で。p175
ふむ~。セラピストにはそれぞれのアルファベットがある。この方にはこの方のアルファベットがあるので、それに慣れるまでが大変だ。これは翻訳が適当でないのだろうか。それとも、この人の持っているキャラクターなり思想なりなのだろうか。
この方には原書で約30冊の著書があるということだから、一冊めくっただけで全部をわかろうとするこちらが無理を言っているのは間違いない。それでも、いい線行っているようにも思うし、ちょっと違うと思ったりするところもある。もっと日本語文献があればいいのに、と思うが、現在のところ、当ブログが読めるのは、この本一冊である。
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コメント
☆sopan
なるほど、what is の is を let it be とか be here now の be として読めばいいということですね。
私はむしろ「脱サイコセラピー論」というタイトルも、もちろん意欲的であると思うのです。「意識をめぐる読書グログ」としての当ブログが、現在の文脈で魅力を感じるのは、むしろ「家族の座」というネーミングや技法よりも、このタイトル「脱サイコセラピー論」のほうだったりします。(招聘はちょっと違いますよね)
どのように「サイコセラピー」は超えていけるのか。その辺が、最近ちょっと、マイブームなわけです。
投稿: Bhavesh | 2010/03/01 09:38
☆monju
機会をとらえて拝読いたします。ご紹介ありがとう。
投稿: Bhavesh | 2010/03/01 09:28
この英語のタイトルは「ありのままを認める」ということだと思います。心理学的な手法は、フロイトのものも含めて、私たちのなかで起こっている出来事の一つの解釈に基づいて組み立てられたものですから、その手法に拘泥することは、その手法の開発者の特定の解釈に依存することであり、結局はダイヤモンドの切り子面の一つしか見ないことになる。だからそれ(特定の手法)を絶対視し、とらわれすぎるべきではないし、現に起こっていることに目を向けるべきなのだ、と言っているような気もするが、読んでないから適当な解釈かもしれません。また"acknowledge"には「謝意を表明する」という意味もあるので、ありのままを「肯定」するというニュアンスもあるかと。「招聘」というのはもしかして"invitation"かなあ、と推測しますが、適訳かどうかは私には判断しかねます。もしもインビテーションなら、ぶっちゃけた話、「招聘」では固すぎるかもしれないけど、どうなんだろう。「招聘」だと、偉い学者さんが、外国の政府に招聘される、みたいなニュアンスになるわな。
投稿: sopan | 2010/03/01 09:11
mixiの日記で「家族の座」について触れたものがあるので、よければ参考までに、、、、
家族の座とメンタルなフィールド
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=208999393&owner_id=64170
投稿: monju | 2010/03/01 00:57