心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う <2>
<1>よりつづく
「心を商品化する社会」 「心のケア」の危うさを問う <2>
小沢 牧子 (著), 中島 浩籌 (著) 2004/06 洋泉社新書: 222p
★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆
「心ブーム」について時代を逆にたどっていくと、1980年ごろにひとつの山を見ることができる。それは90年代のカウンセリングや「心のケア」ブームとはやや趣を異にし、これに先駆ける、「精神世界ブーム」というべきものであった。瞑想、魂、霊と言った言葉群に代表される世界である。
1980年に出版された「別冊宝島・精神世界マップ」の序文には、次のような言葉が並んでいる。「『理性の時代』から『精神の時代』へと、いま歴史の流れは大きく転換しようとしている」「さまざまな精神療法、禅やヨガ、東洋思想や神秘主義への関心が高まっている」「内へ向かう旅、魂の進化をめざす旅がニューエイジの合言葉になるだろう」など、現在の心理主義ブームとはいささか異なる雰囲気を持っていることが察せられるだろう。
1985年に新宿の大書店紀伊国屋書店で催された「精神世界フェア」は人気を集め、このフェアに協賛した平河出版が発行していた雑誌「メディテーション」が、大きく売り上げを伸ばしたと言われる。ただしこの「精神世界ブーム」は、いささかおどろおどろしいもの、または「オタク」的な一部の人びとのものとして受け止められ、社会に大きく広がることはなかった。しかしこの現象は、人々の関心を内面へいざなうという意味で、のちの心理主義ブームへと水を引く役割を果たしている。
このいささか重たい「精神世界」への関心が、一気に軽いムードに代わって「心ブーム」が作り出されたのが、90年代に入ってすぐのことである。1991年のTV番組「それいけ!! ココロジー」の人気に乗った同名の単行本が爆発的に売れたころから、「心」「心理」「カウンセリング」への関心が、急速に広がっていく。精神という漢字ではなく、心というカタカナを使ったあたりが、商品化に成功をもたらした要因のひとつだったのであろうか。重たいものは流行らない。軽いノリで、と。しかしそのことは逆に、人の暮らす状況が90年代に入ってますます重いものになってきたことを暗示してもいそうだ。p41小沢「作り出された『心』ブーム」
こういうとらえ直しもまんざら悪いものでもなく、最初は面白かったのだが、だんだん、読んでいて苦痛になってきた。読み進めている自分がマゾヒストのように思えてくる。なんでそうなのだろうと考えた。これを書いている人は、分裂しているのではないだろうか。すくなくとも、これは、ひとりの人の体験が描かれたものでもなく、ある種のカリカチュアライズされたものだ。つまりフィクションだ。たしかに社会学的に、物事を並べて俯瞰しようという試みはそれなりに価値がありそうではある。だが、結局は自らが創り出したフィクションにハマっていっているのである。
80年に「別冊宝島」を読み、85年に紀伊国屋に行き、91年に「それいけ!! ココロジー」を見ていた人はどのくらいいるだろう。この3つの体験に絞り込んだとしても、ひとりひとりの人間は、同じバランスでこれらの外界と接しているわけではない。ある人は、雑誌は好きだったけれども、テレビは嫌いだったかもしれないし、紀伊国屋には行ったけれど、「メディテーション」は買わなかった、という人もかなりいるはずである。
これらを一面的に定型化してしまう作業の反面、この図式からずり落ちていく事象は、実は、ここに書かれていることより、はるかに多いことを忘れてはいけない。上の文章は、多少の具体的な事例を交えたフィクションとして読んだほうがいい。結局、この人はなにがいいたいのか。そこのところがポイントだ。
この人は、「心」が嫌いなだけでなく、「瞑想、魂、霊」と言った世界がもともと嫌いなのだろう。いや、かくいう私だって瞑想も決して得意ではないし、魂やら霊という言葉だって、かなり苦手な分野に入る。しかしながら、それとこれとは大違いなのだ。好きとか嫌いとかの問題以前に、それらは「ある」のだ。このポイントに留意しなければならない。それが隠されていようが、表にでて表面的に流行しようが、「ある」ものは「ある」のである。少なくとも、「ない」ものとして蓋をしてしまったとしても、わずかこの新書一冊では隠しようがない。
このようにして読んでいくと、自分がある程度わかっている部分については反論ができるけれども、いままであまり関心を持ってこなかった部分については、具体的に反証するほどの材料がない。ついついそのまま鵜呑みにしてしまいかねない。極端に言うと「洗脳」されてしまう。
この本を読んでいて、感じるのは、ある重苦しい一つのトーン。まるで、どこかで一つの単音がずーっと鳴り響いている感じがする。最初は気になっていたのだが、ずーっと聞いていると耳が慣れてしまって、音が出ているのか出ていないのか忘れてしまう。だが、その空間を離れてみると、ふたたび、その音がずーっと鳴り響いていたこと気づくことになる。
その鳴り響いているトーンは、一体なんであろうか。こだわりとか、執念とか、怨念とかに近い、モノトーンの悲鳴に近いなにかだ。泣いている少女の声がどこかでずーっと聞こえて続けているような、ちょっと背筋がさむくなるような、悪意にさらされているような奇妙さだ。
当ブログにおけるZENマスターをめぐる冒険は、いまのところ、教育学や病理学、あるいは産業や介護とかの現場には距離をおいておく。そしてこのような社会学的なとらえ方にも拘泥しないことにする。より「私」であるために、もうすこし絞り込んでいこうと思う。
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