さがしてごらんきみの牛―詩画・十牛図
「さがしてごらんきみの牛」 詩画・十牛図
絵と文 マ・サティヤム・サヴィタ 河合隼雄・解説 1992/10 禅文化研究所 単行本
Vol.2 982★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
この一冊をもって、当ブログの「私は誰か」カテゴリは108の書き込みに達した。残すは当ブログ<2.0>の7つ目のカテゴリ「ブッタ達の心理学3.0」の、新たなる108の書き込み、ということになる。そして、当ブログの2順目の読書であるVOL2も現在982目。あと42冊の新しい本を読めば、VOL2も1024冊の定量となる。
つまり、残る42冊の新しい本を読んで感想の記事を書き、再読した本の記事を66個を書く、つまり合計108の記事を書けば、当ブログにおける何事かのサイクルの一つの終点ということになる。
当ブログは自然と、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスの3つのステージを意識することとなった。こうしてみると、最初のVOL1は、ネット上のコンテナとしてのブログ機能を確認するための1024冊だったと言える。そして二番目のVOL2は、読書コンテンツとしての図書館機能の活用のための1024冊だったと言えよう。
さて、やがてこの5~6月あたりにスタートするであろうVOL3は、はたして「コンシャスネス」のための1024冊となり得るだろうか。「意識をめぐる読書ブログ」としての、コンシャスネス「意識」をめぐる、とは一体どういうことであろうか。そんなことに思っていたら、今回monju氏の推薦(コメント書き込み)があった、この本のことを思い出していた。「さがしてごらんきみの牛」は、その図式をより明確にしてくれる一冊である。
とうさんもかあさんも知らない
小さい時から一緒に育ったぼくさえ知らない
だのに
なぜ
あのひとは知っていたのか・・・・・
見つかればわかる とあのひとは言った
でも 本当はみつかるかしら
ぼくの牛は 0 「プロローグ - 一杯のお茶が教える牛の不在」
十牛図については当ブログでもいろいろ見てきた。
「自由訳 十牛図」 新井満 2007/06
「Three Pillars of Zen」 Roshi P. Kapleau 1908/07
「Zen Flesh, Zen Bones」 Paul Reps 1959
「究極の旅」 Osho 1978/3
「年賀状あれこれ」 2009年の年賀状アラカルト
しかし、その中にあっても、この「さがしてごらんきみの牛」は、カラフルで、柔らかくて、深い、実に女性的感性が豊かな十牛図である。いや、これは円環しているから、もやは十牛図とさえ呼ばないかもしれない。解説の河合隼雄は書いている。
10はまさに1+0である。それは終わりであり始まりでもある。
この作品の出来上がる過程を知っているものとして、ここにひとつのエピソードを述べておこう。これは最初の1図から10まで描かれ、10図を描いているとき、作者によれば、「どこからか絵の片隅に不思議な人物が登場し」、どうもそれが形象化してプロローグの0図の2番目の不思議な老人になったらしいのである。つまり、この作品は0から始まったのはではなく、10の次に0へと続き、それはまさに円環を構成することになったのである。河合隼雄「解説(コメント)」
いままでも何度か借りてきたけれども、この美しい本を近くの図書館が所蔵してくれていることがとてもうれしい。多くの人の目に止まりますように。
さて、当ブログも、大きなサイクル、小さなサイクル、日々日常の、終わりと始まり、始まりと終わりの円環の地点にいる。いや、よくよく考えれば、始まりもなく、終わりもないはずなのである。そういえば、オレゴンのコミューンのお祭りのとき、食べたクッキーの中におみくじが入っていた。
「みんなが手をつなぎ、大きな輪になった時、誰が最初で、誰が最後か」
この公案をとくために、一期一会、また新たなる旅にでることとしよう。
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