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2010/03/07

魂の螺旋ダンス はるかなる今ここへ<7>

<6>よりつづく
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「魂の螺旋ダンス」はるかなる今ここへ <7>
長澤靖浩 第三書館 2004/12単行本 245p
★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 ケン・ウィルバー「インテグラル・スピリチュアリティ」をぱらぱらめくりながら、以前めくった「魂の螺旋ダンス」を思い出した。思えば、あっという間に3年が経過したわけだが、まぁ、あの本のすべてを読んでいたわけではない。

 私にとってこの本が気になったのは、著者がOshoのサニヤシンとしての自覚があり、自らの個人史の中で、多少のエピソードを交えながら話しているわりには、なんだか私のOsho体験とはかなり違っているなぁ、と思った点。

 もっとも、この本の中にはOsho以外のことがたくさん書かれてあり、この本の中からOshoに関わる部分だけ抜き出して書いた以前の書き込みは、必ずしもフェアなものではないな、と思う。でも、さて、それ以外に、どのような接点を見つけて、この本を読めばいいのだろう。

 本稿の元となる原稿「螺旋 精神宇宙と大地の神々の統合へ」は、1999年に猿田彦大神フォーラム研究助成論文に選ばれ、2000年の秋に発表したものである。その後、その原稿をより大きな構想で膨らませた本書の執筆に取り掛かった。p240「あとがき」

 もともと「猿田彦大神」という存在ありきの論文なのである。「研究助成論文」というあたりも気になる。つまり純粋な論文というより、何らかの「懸賞金」のようなものが掛かっていた論文であったのかもしれない。それはそれで構わないのだが、まずは、そのことは留意しておかなくてはならない。

 扱う領域は、この島の精神文化史全般であり、そこにはまた世界史的な視野も取り入れなければならければならなかった。そのため文献の読破に時間をとられる一方、精神文化の螺旋モデルの具体的造形や肉付けにも、産みの苦しみを味わった。p240「あとがき」

 「この島」とは、多分、日本列島のことを言っているのだろう。「世界史的な視野」とは、はて、どういうことをいうのだろう。つまりここでのキーワードは、「日本」と「世界」だ。正しそうなのだが、どこまでもこの本が読みこなせなかったとすれば、ここのところにも、当ブログの取り組みなどとは決定的に違うものがある。

 当ブログが対峙させようとしているのは、「個人」と「地球」だ。「個人」という言葉でもアバウトすぎるとすれば、「個人としての<私>」と「地球」と、言い換えてもいい。あるいは、「地球」という言葉もアバウトなのだが、それ以上のリアリティある単語は今のところ他に想いつかない。

 本稿には今なお、不十分な点が多々ある。が、まずこれを叩き台に各方面の批判を仰ぎながら、今後の思索を進めていきたいと考え、本書を世に問う次第である。p240「あとがき」

 前から気になっていたケン・ウィルバーだが、図書館ネットワークがどんどん繋がっていく中で気づいたことは、すくなくとも私が利用できる公立図書館(大学も含む)には、ウィルバーはあまり収容されていない、ということである。私の周囲などの受け止め方からすると、一般的なウィルバーの認知度や人気度は、ちょっと過小評価すぎるのではないか、と思う。しかし、そのような現象がまずは現実としてある。

 つづいて、この「魂の螺旋ダンス」をみると、さらに所蔵数はすくない。私のエリアでは、最寄りの図書館に私がリクエストしてようやく入庫した一冊のみである。他にはない。「まずこれを叩き台に各方面の批判を仰ぎ」という著者の希望だが、残念ながら、この本を題材として話を共有できる人たちは、現在のところそう多くはない。ネット上でも売り切れの表示がでている。(注、この本はアマゾンなど、ネット上で簡単に手に入るし、本屋への配本も終わっていないので注文すれば来ます。2010.03.09追記) 

 この本の巻末には「主要参考文献リスト」がついている。およそ100冊の、いずれも難解そうなハードカバー本が中心となっている。著者が「文献の読破に時間をとられ」たのは、当然のことであっただろうと、その状況が目に浮かぶようだ。しかし、よくよく見ると、このリストは飽くまで「主要参考文献」なのであって、ここに明記されてなかった資料がさらに膨大な量としてあるに違いない、と想像できる。

 さて、そうなってくると、さらに疑問が立ちあがってくる。なぜにそんなに本を読まなければならないのだろう。そこまで本を読まないと「魂」は「ダンス」しないのだろうか。「螺旋」プロセスの、通過すべき一地点であったとしても、あまりに重厚なダンスではないか。軽やかなスキップを踏むようなダンスはできないものか。

 「ケン・ウィルバーによるフラットランド批判」p212あたりが、今回、振り返って読んでみようと思い立った部分であるが、図版を除いてみれば、全245pの本書の中では、わずかに3ページだけであった。書籍のタイトルなどが列記されており、ホントに重要な部分はほんの数センテンスだけだが、ウィルバー読みではない私は、その部分についてのコメントはさけておく。

 いずれにせよ、この本は情報が満載(というか、いまいち整理しきれていなかったのかも)で、言わんとする方向性は分からないのでもないのだが、ズバリ、というキレ味よいコメントは、本のタイトル以外には、ぼうっとした読者でしかない私には、なかなか響いてこない。

 この本をまためくってみていて、ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」のことをまた思い出した。やっぱり、あの本も、イメージとしては同じだなぁ、と感じる。なかなか狙いはいいし、タイトルや腰巻のキャッチフレーズもなかなか気に入っている。コピーとしては素晴らしい。

 しかし、一旦、ページを開いて読み始めると、軟弱な読者でしかない私などには、ズバッと、ハートにダイレクトに響いてくるものがない。インテグラル、統合、という文字は踊るが、たくさんの情報が順序よく整理されているようでいて、実は、体系化に失敗したものを、たんに構造と呼んでいるだけではないか。

 先日読んだ渡辺公三著「闘うレヴィ=ストロース」の孫引きの部分が思い出される。

 第一は、この定義が、要素と要素の関係を同一の平面上においている点です。別の言い方をすると、ある観点からは形式と見えるものが、別の観点では内容としてあらわれるし、内容と見えるものもやはり形式としてあらわれうる。[・・・・]

 第二は「不変」の概念で、これがすこぶる重要な概念なのです。というのも、わたしたちが研究しているのは、他の一切が変化するときに、なお変化せずにあるものだからであります。

 第三は「変形(変換)」の概念で、これによって「構造」と呼ばれるものと「体系」と呼ばれるものの違いが理解できるように思います。というのは体系も要素と要素間の関係からなる全体と定義できるのですが、体系には変形が可能ではない。体系に手が加わるとばらばらに崩壊してしまう。これに対し構造の特性は、その均衡状態になんらかの変化が加わった場合に、変形されて別の体系になる、そのような体系であることなのです。「闘うレヴィ=ストロース」p24 「構造の逆説と歴史」

 レヴィ=ストロースという人の業績などよく知らないが、すくなくとも、この表現の中に現れている「柔軟性」や「深淵性」が、どうもウィルバーやそれを評価する人々に感じられないところがある。

 統合やインテグラル、といいつつ、どうもますますグチャグチャと迷路や袋小路になってしまい、少なくとも、私の住んでいるようなエリアの一般的な公立図書館に所蔵されるような道を拒んでしまっているのではないか、と思える。

 「意識をめぐる読書ブログ」としての当ブログは、ハードなヘッドトリップに耐えられるほどの頭脳明晰さを欠いているので、まぁ、このへんあたりで、ウィルバーやそれに類するものとは、一旦お別れかな、と思う。なんせ、当ブログは現在、締めにかかっている。それはどうやら統合というより、溶解や蒸発に近いような現象だ。(つまり頭の中が空っぽになりつつある、ということ)笑

<8>につづく

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コメント

☆あび
>この本はアマゾンなど、ネット上で簡単に手に入るし、本屋への配本も終わっていないので注文すれば来ます。

これは大変失礼しました。それはよかったです。もっと多く読まれた方がいいのにと思っていたので、うれしいです。

本の冊数だけでいえば、当ブログもこの足掛け5年間で約2000冊ほどめくってきました。ただ精読できたものは、ほとんど一冊もなかったと言っていいかもしれません。こういう本が図書館にあった、ということを確認している程度のことです。

あびの本の巻末の参考文献のリストにも、一度は挑戦するのもいいかな、と思ったりしましたが、一部すでに読んでいる本以外に、新たにチャレンジすることはありませんでした。

なかなかあれだけのハードカバーを集中的に読むということは、とてもとても当ブログなどにはできません。もっとも、私にとっての読書は、自分の思想性を高めたり、議論の精度を高める、という意味合いではなく、きわめて漫然とした、趣味的なものです。

誰かに指摘されたり、後から自分で気づいたりして、頭をかきながら訂正したりしているわけですが、それは割と表面的なご愛敬だったりして、実は、根底には、かなり頑固な自分がいたりして困ったりします。

あびはたしか学校の先生だったと思うのですが、そういう立場の人たちは、当然キチンとしたことを教えたり書いたりしなければならないので、そこはぜひよろしくお願いします。

読者の私たちは、好き勝手にピーチクパーチク言っているだけですが、これはこれで著者に対する謝意のつもりであったりします。元がなければおしゃべりもできないわけですから。

「魂の螺旋ダンス」今後も機会をとらえて再読させていただきます。合わせて、続編でもあれば、ぜひ読ませていただきます。

著者自らのレス、ありがとうございました。

投稿: Bhavesh | 2010/03/09 09:04

☆あび
>この本にたくしたテーマはいろいろあるのですが、
ひとつには、宗教の社会的身体という問題です。

長文のレスありがとう。飲み込みの悪い一読者でしかない当ブログですが、とても多くの課題が含まれていると思いますので、時間をかけて反芻しながら、すこしづつ消化していきたいと思います。

天皇制の問題などについても、煮詰めて考えているわけではありませんが、単発的な個人レベルの当ブログなどは何の防備もないので、ネット上で不用意な発言はなるべく避けるようにしています。

それは、当ブログ全体に言えるのですが、それがあいまいな表現になっていたり、徹底的な議論や「バトル」を避けている理由です。今後の課題であります。

>世界じゅうの精神文化が、やがて固着を起こして
支配や戦争の元となっていくことについても考察し、
どうしたら、そういう問題を超えていけるのかを考察しました。

これはまさに当ブログの最大テーマでもあります。今後ともご指導いただければ幸いです。

Oshoについても、さまざまな方面からの意見や表現を聞くことは私は好きです。いろいろな意見があります。そのひとつとして私の意見もあるわけですので、両論併記という形で、これもまた、時間をかけて咀嚼していければいいな、と思っています。

投稿: Bhavesh | 2010/03/09 08:45

追伸
この本はアマゾンなど、ネット上で簡単に手に入るし、本屋への配本も終わっていないので注文すれば来ます。

あと、たくさん文献を読まなければならなかった理由は、説得力をもたせるためです。
特に、宗教性と天皇制の問題を論じる場合、生半可なことでは、右派からの批判などに耐えることができません。

床屋談義として広まっている「日本は天皇中心の神の国」みたいな言説にも、どこがどう間違っているのか、きっちりとおさえようと思うと、こっちが勉強しないとだめだと思いました。

ただ左翼的な視点から批判するだけではだめで、ちゃんと宗教性の問題として、宗教史を踏まえて論じないとだめだと思いました。
感情的な非難を展開するのではなく、事実をふまえて淡々と語りたいと考えました。

たとえば、古事記を読まずに、漫然と「神道はいいなあ。日本の伝統だねえ」なんて感じで話している床屋談義に入っていって、

古事記に書いてあることを、ひとつひとつ丹念に読みほぐしながら、
そもそもこれを「日本神話」と呼ぶことにどのような問題があるかまで説明するには、
古事記とそれにまつわる文献の数々を読むしかなかったのです。

というようなことが重なり重なって、たくさんの読書を必要としました。

投稿: あび | 2010/03/09 00:19

著者です。
この本にたくしたテーマはいろいろあるのですが、
ひとつには、宗教の社会的身体という問題です。

最初の動機としては
なぜ、日本のすぐれた精神文化のことごとくが天皇制にまきこまれて
戦争を推進する力になってしまったのかということです。
そこでは日本の精神文化について考えることになりました。

しかし、それだけではなく
世界じゅうの精神文化が、やがて固着を起こして
支配や戦争の元となっていくことについても考察し、

どうしたら、そういう問題を超えていけるのかを考察しました。

OSHOについてですが
僕も純粋な宗教性の次元では
すばらしい体験をしているのですが
以上のような本書のテーマとの関連からいくと

それについても
社会的にどのような課題があったのか、
という視点が強くなってしまっているわけです。

投稿: あび | 2010/03/09 00:08

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