「もし僕らが生き続けるなら」 自由の世界への出発 塚本晃生<1>
「もし僕らが生き続けるなら」自由の世界への出発 <1>
塚本 晃生 1972/12 大和書房 単行本 204p
Vol.2 988★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆(残り36冊)
当ブログVOL2の1024冊まで、あと残すところ30数冊というところまでやってきた。さて、心の中では、最後の1024冊目を何にしようかと、密かに思案中。Oshoのことを考えれば、最後のレクチャー「禅宣言」かあるいは「ノーマインド」か、などと考えてみたが、よくよく考えれば、VOl1の1024冊目は「The Zen Manifesto(禅宣言英語版)」であった。
所詮、頭の中にあるポケットには限界がある。結局は、同じようなアイディアしか出てこないのだろう。それにしても、同じ本を最後に持ってきたのでは意味がない。そこで考えたのがこの本。なんだかよく有りそうな本ではあるが、私にとっては、格別な味のある一冊である。
出版されたのは、今から40年近く前、著者は塚本晃生。あらためてこの本を見直してみて、この名前を新たにしたのだが、ネット上をみると、まだご健在で活躍中の人である。この本には、つまり70年前後のカウンターカルチャーとしての「若者文化」が描かれており、著者が直接面接したりして取材したものである。
登場する人物もそうそうたる面々である。小田実、唐十郎、横尾忠則、東京キッドの東由多加、末永蒼生、あるいは当時流行の共同体、夜迷亭、石神井コミューン、もぐら、わが家、振出塾、さくらんぼユートピアなども登場する。いきなり沢村浩行なんて名前も登場するから、知る人ぞ知る「世界のサワムラ」を以前から知っている人なら、この本の貴重さが偲ばれようというもの。その他、当時の状況が満載されている。
これらの多くの叛逆する若者たちの意識や行動の背景には、一体何があるのか? 激しく揺れ動く現代社会を、彼らはその内面でどのように受けとめているのか?
このような素朴な疑問をかかえ、ぼくは多くの若者たちと直接的に交流を行ってきた。その結果生れたのが本書である。p6「はじめに」
1936年生れの著者、36歳の時の作品である。2010年の現代であれば、36歳はまだまだ「若者」の範疇に入っていてもおかしくはないが、この本の出版当時は「30歳以上の大人は信じるな」という雰囲気が強い時代である。彼は大人であり、若者にすり寄ってきた稀有な「大人」のひとりであった。
私はこの著者に会ったことがある。当時発行していた個人ミニコミが「週刊朝日ジャーナル」のミニコミ特集のリストに載り、日本中から手紙やら電話が舞い込んだ。(この時の懸賞論文に優勝したのは、奥野卓司の「飛べ!ぼくの紙ヒコーキ」だった。)
著者は、当時高校生だった私にアンケートを送り、その後面会を求めてきた。確かに私は友人とともに彼と会った記憶がある。しかし、その記憶もすぐに消え去っていた。その後、5~6年してから、ある別な友人から、お前が取材されている本があったよ、と教えてくれた。
すでに新刊とういう時期も過ぎていて、その友人も古書店でこの本を求めたらしい。今でもシールが貼ってある。「アベノ近鉄南一丁西側 天海堂書店」。今でもある書店なのかどうか知らない。私もポイっと投げ出されたこの本を、時期がはずれたアルバムのように、所蔵はしてきたがよく読んだことはない。
でも、今から考えてみれば、この本は私個人にとっては、とても貴重な記念碑的なものになっている。そうそうたる並みいる存在感のある人々に交じって、私も取材されているのだ。当時の私は17歳。ミニコミ発行者の一人として、アンケートに答える形になっている。この本の中では最年少の登場人物だろう。
私は思う。あの当時17歳の私がガリ版とわら半紙で作った個人ミニコミと、今現在進行中のこのブログは何の切れ目のない、同じものなのではないか、と。あの時の17歳の少年は、単に55歳の初老の男になった。しかし、ハートは、魂は、あの当時のあのままだ。取り上げられているテーマも「ぼくらの意識 ぼくらの行動」p154である。「意識をめぐる読書ブログ」を標榜する現在の当ブログへの繋がりもほんのり見えてくる。
出合った多くの若者たちに対し、ぼくはぼくに負わされた義務を、十分に本書で果しえたかどうか自信がない。それもこれも再びかかえこんで、今後もヨタヨタと歩き続けることになるのであろう。
本書が出版されるころ、僕は約一カ月の予定でヨーロッパを歩き回ってくるつもりである。その主な目的は、海外に何かを求め、長期間滞在している様々な日本の若者たちに直接会って話をしてくることである。日本の若者に限らず世界の若者たちが、お互い他国の自然、社会、風俗、文化を体験し合い、さらに”言語”の交換をさかんにしていくことは、これからますます重要な意味を帯びてくるのではあるまいか。204
1972年、この年、私は仲間たちとともに、ヒッチハイクで日本一周をした。北は網走、南は沖縄、18歳の少年として見たものは、今でも目に焼き付いている。その後、Oshoと出会い、インドやアジア、アメリカなどにも行った。そして、あっという間に「死」を迎える初老の男に変身した。
でも、心は変わらない。この本がどのような営業成績を残したか知らない。だけど、この本は成功したと思う。少なくとも、ひとりの男に、この私に、この言葉を残した。「もし僕らが生き続けるなら」。あれから40年間、生きてきた。いや、私ばかりではない。著者も、登場人物たちも、そして仲間や、世界中の人々も。
もし、1024冊を経巡り、原点に戻るとしたら、この一冊がふさわしいと思う。特にそのタイトルが大好きだ。「もし僕らが生き続けるなら」。また、原点に戻って、ここから出発だ。しかし、なんだか、ハッピーエンド臭い。それでいいのかな。
最初は隠し玉として取っておいて、実はこの本で締めくくるつもりでいた。でも、なんだか今からこの本を最後の一冊にするためにとっておくのは、予定調和的で、ちょっと欺瞞臭く感じないわけでもない。だから、とにかく、ここで一旦暴露してしまうおう。そして、本当にふさわしければ、最後にもう一回登場させる。ふたたび登場しなくても、もうここでメモしたから、この本を好きだってことは、誰にもわかる。
もし、僕らが生き続けるなら・・・・ いや、僕らは生き続けてきたのだ。もう何十年も生き続けてきたのだ。仮定ではなく、生きてきた、という実績のもとに、新たなる言葉を紡ぎだすべき時期なのである。そのことは、しっかり確認すべきだ。そして、ふたたび、あらたに、もういちどつぶやくのもいいだろう。
もし、僕らが、生き続けるなら・・・
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