闘うレヴィ=ストロース
「闘うレヴィ=ストロース」
渡辺公三 2009/11 平凡社 新書 302p
Vol.2 985★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
当ブログには、目につく本をとにかく読んでやろう、という漠たる思いしかなかった。次第に自分向きの本とか、自分が面白いと思う本がでてきた。そして、初期的には、チベット密教とネイティブ・アメリカンの本に手をかけた。
チベット密教については、ひととおり目を通せたと思う。基本的には仏教の流れと、チベットの文化の流れ、その中にあってタントラの発達の仕方、そしてツォンカパに体系化された理念によってダライ・ラマの法統が生れ、現在に至る。しかし、すでにその理念は母タントラの段階でひとつの円環を成就しており、あとは現実がそれを追認するだけ、という読みが成立する。
一方のネイティブ・アメリカンについては、かなり手こずった。ひとつひとつの事例を読みこむのはいいのだが、それを整理する手段がない。チェロキーやアパッチ、などなどの主なる集団の歴史や現状、特性というものをそれなりに手探りしていっても、これが尽きることがない。そしてまた、それは「読書」という限界から、ミッシングリンクを発見しようがないことが、次々と分かった。
だから、当ブログでは、多分、ネイティブ・アメリカンについての本はすでに100~200冊は読んでいるはずなのだが、まったく整理しようのないまま放置してある。インデックスの付けようがない。あるいは、その方法を知らない。
あの時、ああ、これはレヴィ=ストロースの力を借りなければならないな、と、漠然と思った。文化人類学という、なにか手法があるのではないか、それを理解するまでは、このアメリカ・インディアンについての読書は中止しよう、と思った。
さて、レヴェィ=ストロースのなんたるかも分からないままではあるが、ここに一つの文章がある。孫引きではあるが、当ブログにとっては、大きな視野が開かれる文章である。
第一は、この定義が、要素と要素の関係を同一の平面上においている点です。別の言い方をすると、ある観点からは形式と見えるものが、別の観点では内容としてあらわれるし、内容と見えるものもやはり形式としてあらわれうる。[・・・・]
第二は「不変」の概念で、これがすこぶる重要な概念なのです。というのも、わたしたちが研究しているのは、他の一切が変化するときに、なお変化せずにあるものだからであります。
第三は「変形(変換)」の概念で、これによって「構造」と呼ばれるものと「体系」と呼ばれるものの違いが理解できるように思います。というのは体系も要素と要素間の関係からなる全体と定義できるのですが、体系には変形が可能ではない。体系に手が加わるとばらばらに崩壊してしまう。これに対し構造の特性は、その均衡状態になんらかの変化が加わった場合に、変形されて別の体系になる、そのような体系であることなのです。p24「構造の逆説と歴史」
なるほど、この構造と体系の違い、そして変形の概念が面白い。
例えばチベット密教を考えると、かなり「体系化」されている。あの曼荼羅図などは、完全体系化されていて、もはや崩しようのないくらいだ。ツォンカパの中間思想だって、ガチガチに体系化されていると言ってもいい。どこか窮屈な思いがする。 これをもっと極端な言い方をすると、現在のダライ・ラマを頂点とするチベット密教体系は、もしダライ・ラマが失われてしまえば、バラバラになってしまうのではないか、という懸念にもなる。変形に対する柔軟性を、チベットの民衆の「構造」は持ち得ているだろうか。
逆のことが、ネイティブ・アメリカンに言える。彼らについての関心は(読書してみたいというレベルにとどまっているが)とてつもなく大きいのに、それがなかなか進まない。彼らがバラバラであるからである。どこからどう手をつけていいかわからなくなってしまう。
それはネイティブ・アメリカンが「体系」を持っていないからだ。互いに関連する共通の理念というものがない(ように読書子には見える)。しかるに、大まかな、大地と大空に生きる星を見つめる存在としての人間像は「構造」として、共通している。
中沢新一の「三位一体モデル」の表紙には、下記の三つ円が描かれている。
私はこの図にすこし違和感を感じる。この図がもっと極端になると、河合隼雄「ナバホへの旅」の中にでてきたような三角形に発展していく。
ドストエフスキーの「カラマーゾフ兄弟」を読んでいて、さらにこの思いは星型正四面体に及ぶに至って、ちょっとこの体系化はやばいんじゃないか、と思うようになった。
仏教の中には仏・法・僧という三つの宝がある。日本語では語呂もいいので、これ以外に語られることはないが、Oshoなどは、この順番が違う。仏(ブッタム)、僧(サンガム)、法(ダンマム)の順になっている。なぜにそうなのか、当ブログはその解決に至っていない。
ある時、禅寺のお坊さんに聞いたことがある。その時の答えはこうだ。「仏の陰には法と僧があり、法の陰に仏と僧があり、僧の陰には仏と法があるのです。だから、どの順番でもいいのです」。
なるほど。私はこれで納得した。しかるに、ロバート・E・ディクホフ「アガルタ 虹の都」などでは、サンガ(僧)・ブッタ(仏)・ダルマ(法)の順で登場する。「僧仏法」ではいかにも語呂が悪く、日本語受けしないことになるが、しかし、この書き手ゆえに、この順は間違っている、と一蹴することは難しいのではないか。もし、上の禅僧の答えが正しかったら、ディクホフの表現も決して間違いではない。
つまり、当ブログは、「父」と「子」と「聖霊」という、上の中沢新一の本のカバーのような三角形の体系はまずいんじゃないか、と思うようになった。三角形を作ると、どうしても、河合隼雄が上に描いたように、三角形の中になにかを描きたくなる。そもそも、三つのシンボルが、一体化するという仕組みをどう作るか、ということになる。
当ブログでは1→3を三つの円で著しているが、この図式は3→1への回帰をも意味している。 さて、この図式の中に先ほどの仏法僧をあてはめたら、どんなことになるだろう。
これらがあるかどうか知らないが、とにかくこういう図は作ることは可能である。とするなら、父と子と聖霊も、同じことが言えるであろう。
これらはあくまでも図柄遊びに過ぎず、一体全体、このような図柄が存在しうるのかどうかさだかではないが、それもこれもすべては、全体回帰への試みのために過ぎない。
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コメント
☆monju
現在はネット上におけるin isolationの状態で、「in silence」のバッチを胸につけて、アシュラムの中をふらついているようなものだとご理解いただければ、大変ありがたいです。
(*゚ー゚*)
投稿: Bhavesh | 2010/03/04 08:49
なるほど(笑)……正解なんてのとはちょっとちがうと思うけど、自分の道をひとり歩む楽しみは他のものに換えられないものね。
投稿: monju | 2010/03/04 08:29
☆monju
ご紹介ありがとう。
当ブログは当ブログなりの流れがありますので、「正解」(笑)はあとで見るとして、もう少し自分の「牛」をさがしてみようとおもいます。
投稿: Bhavesh | 2010/03/04 07:29
つい数日前に、仏陀の三帰依というタイトルで日記を書いたところなので参考までに……。OSHOが三帰依をどのようにとらえていたのか、興味深い内容になっています。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1425015539&owner_id=64170
投稿: monju | 2010/03/04 07:09