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2010/03/05

2011年新聞・テレビ消滅<2>

<1>よりつづく
2011年新聞・テレビ消滅
「2011年新聞・テレビ消滅」 
佐々木俊尚 2009/07 文藝春秋 新書 237p
★☆☆☆ ★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆

 著者のいうところは、こういうことだ。つまりインターネット時代になってメディアのコンベアが変わっているのだから、コンテナとしての旧メディアは消滅しますよ。アメリカの3年遅れで現象が起きる日本だから、2008年にアメリカで起きたことは2011年に日本で起きますよ、ということだ。

 ことごとく外側の世界のことだから、今から最終的に当ブログが突入しようとしているターゲットとはまるで方向性が違う話だが、この本をめくっていると、反面教師的にいくつかのことに気付かされる。

 この人にとっては、コンテンツとは極端に言ったら「コンテナ論」だ。コンテナ論に飽き足らなくなって、コンベア論を持ち出しているまでで、言ってることは本質的にコンテナ論と変わらない。いや、この人にとっては、コンテンツも結局は「コンテナ」になってしまっている。

 この人がコンテンツとしてあげているものは、新聞記事、番組、楽曲、吉本興業のお笑い番組、小説やノンフィクション、プロダクションが所属させているミュージッシャン、エイベックスがプロデュースするミュージッシャン、制作会社、などなど。

 マス・マーケティングで商品化されたものばかり。結局はマス・メディアの視点からしか世の中が見えない。ましてや、自らの内面の振り返りなど、なにもない。「あとがき」などに新聞記者時代の振り返りなどがないでもないが、結局は、自分のなかに残った他人に対するわだかまりを吐露しているだけだ。

 いや、別にそういう本なのだから、それ以上のことを求めようとするのは酷というもの。人にはそれぞれのキャラクターがある。しかしながら、例えば梅田が「ウェブ進化論」のヒットのあとに出した本が「ウェブ人間論」だったことを考える時、この両者のインターネットに向かう姿勢の違いが大きく開いていく。

 インターネットが台頭し、標準化することによって、旧来の巨大産業は倒壊しまっせ、ってことの警告を発し続けていることはわかる。しかし、そんなことははっきり言ってもはやどうでもいい。つぶれるものはつぶれるしかない。嫉妬心や競争心、猜疑心や執着心を掻きたてられても、反応したい人だけが反応すればいい。

 あえていうなら、梅田望夫のメタファーを借りるなら、もう「ウェブ進化論」なんて当たり前のことなのであり、すでに問題は「人間論」に入っている。とくに当ブログではインターネット=コンテナ(+コンベア)論は、とうに後ろにしてしまい、前に進み始めている。

 本書は、コンテンツ→コンテナ、そしてコンベアへの流れ、つまり箱物コンテンツの大手作り手たちが、新しいコンベアの出現に、いったい、これからどうするのよ、と、うろたえている図式を浮き彫りにしているだけだ。それは、単に旧来のものをどう維持するかという保守的な思考がぐるぐる回っているだけで、所詮は、「消滅」の憂き目をみるのはすでに明らかなのだ。

 ここで流れを一変しなければならない。もしその「コンベア」に何事かの優位性を見るならば、まずそのコンベアありきで考えなおさなければならない。コンベアが変わったのだから、コンテナも変わらなくてはならない。コンテナが変わったのだから、コンテンツも変わらなくてはならない。当たり前のことなのだ。

 そして、マス・マーケティングに慣れてしまった、旧来の「箱物コンテンツ」の作り手たちは、コンテンツをモノ化して考えすぎている。コンテンツとは表現であり、創造だ。歌であり、踊りであり、詩でなくてはならない。それは「楽曲」や「画像」や「書物」ではない。ことごとく、表現や創造をモノ化して考える癖のある著者の本は、まさに、その権化と言っていい。

 当ブログが、敢えてコンテナ→コンテンツ→「コンシャスネス」の流れを考えるかと言えば、まさにこの箱物コンテンツから、いかにして離れていくか、ということを考えているからだ。マス・マーケティングの商品など、もはやどうでもいい。「人間」を数量的にとらえる視点では「人間論」は語れない。人間を語るには、人は、静かに「個人」としての、自分自身に降りていかなくてはならない。

 そして、当ブログにおける「個人」というテーマはさらに、深化していかなくてはならない。最近まで、茂木健一郎の「意識とはなにか」についていたブック・ガイドもたどってみようと思っていた。しかし、何かが違う。「なにか」と問うてしまった時に、まさにその第一歩でこの「意識とはなにか」という問いかけは答えを見失ってしまっているのではないだろうか。

 池田晶子の「私とは何か」の問いかけに違和感を感じ、あえて「私は誰か」という問いに直した当ブログであってみれば、「意識とはなにか」という問いかけも、結局は間違いだ、と断定しても構わないのではないだろうか。「なにか」と問うた時にすでに、まさにその第一歩目で答えは見失われてしまっている。

 なぜなら、その第一歩目で、外に歩を進めてしまうからだ。意識は中にある。個人個人の自らの内側にしか意識はないのだ。だから、もし、「意識」という言葉に何らかの妥当性があり、重要性があるとすれば、内側を尋ねるしかないのだ。

 かつてのあの三つの問いかけを考えてみる。「私は誰か」、「魂はどこにあるか」、「いかに死ぬか」。この答えとして、例えば「意識」を当てはめてみる。「私は意識である」、「魂は意識の中にある」、「意識して死ぬ」。語呂合わせのようではあるが、結構、これが当てはまる。

 本当は、これは「意識」でなくてもいい。なにか<A>というものであっていい。「私は<A>である」、「魂は<A>にある」、「<A>として死ぬ」。もしこの<A>に当てはまるものであれば、「意識」でなくてもいいし、言葉ですらなくてもいい。

 ただ行きがかり上、当ブログでは<A>≒「意識」≒「コンシャスネス」として扱っていく。現在のところ仮説でしかないが、妥当性がないわけではないし、証明は、本当はできない。それは科学として語られるより、詩として語れられなくてはならない。あるいは絵とか踊りとして表現されるかも知れない。しかし、それは体系化された言語による合理性では表現できない。可動的な流動性の構造の中にあるなにかだ。いやこの「可動的な流動性の構造」こそ「意識」と言っていいかもしれない。そしてそこにさらなる「普遍性」が加わることになるだろう。

 このような地点から、この本の著者には、「コンテンツ」から下さがりの箱物化ばかり論じてほしくない。もっと「コンテンツ」から、さらなる創造性へと舞い上がっていく「コンシャスネス」論を語れないものだろうか。そこが、すでにこの著者の一連の著書に距離を感じている理由である。著者の「ブログ論壇の誕生」なども惨憺たるものだ。

 著者などの視点から考えれば、当ブログのような視点は少数派かもしれない。しかし、この少数派が「生きてくる」、「生かされてくる」時代こそが、新しい時代なのであり、著者がおののいている未来なのだ。そこを見ておかないと、佐々木俊尚というライターの「コンテンツ」そのものが「消滅」するだろう。(私の読みとしては、著者の本からは本質的な「コンテンツ」はすでに「消滅」して久しい、と推測している)。

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