「お経 禅宗」桜井 秀雄 他 <1>
「お経 禅宗」 <1>
桜井 秀雄 (著), 鎌田 茂雄 (著) 横尾忠則(装丁)1983/4 講談社 282p.
Vol.2 No.993★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆(残り31冊)
修証義
第一章 総序
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。人身得ること難し、仏法値うこと希れなり、今我等宿善の助くるに依りて、巳に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き仏法に値い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すこと勿れ。無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身巳に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし。熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに隋い行くは只是れ善悪業等のみなり。今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、善悪を弁まえざる邪見の党侶には群すべからず、大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、毫釐も忒わざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。善悪の報に三時あり、一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時という、仏祖の道を修習するには、其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり。爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。当に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、徒らに邪見に堕ちて虚く悪業を感得せん、惜しからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。p99
ルビが振ってあると、すごくよくわかるのに、漢字だけとなると、読めないばかりか意味も分からなくなってしまう。読み下し文なので「禅語事典」などに比べればはるかに読みやすいのだが、それでも普段はまったく使わない文字もでてくる。なんと読むのか分からない文字がいくつもあった。
それでも、自分の原点探しをしていくなら、この「修証義」もその一つということになろう。8歳の時に父の葬儀の時にこのお経を聞いていた。もちろん、意味などよくわからない。しかし、最初の「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」という部分がやたらと印象に残っている。「生を明らめ死を明らむる」とは、何んと不思議な言葉かと思った。
後年になると、「生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。」あたりも分かるようになり、なるほど、と腑におちるところもあった。この後や、二章以降などは、何かの法事のときなどに読むだけだけど、それでも、なんだかありがたくなるから不思議ではある。
道元の教えを元に造られた経文であり、ここを契機として仏典に触れていくのもよいきっかけとなるだろう。この本、装丁を横尾忠則がしている。自分のひとつの原点としてみることも可能ではあるが、しかし、最後の一冊としてこの本を据えるのは、いくら「死を問う」ことが目下の関心となっている当ブログとしても、ちょっとはばかられる行為である。
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