シッディ・スヴァバーヴァ タラン・タラン <2>
<1>よりつづく
「シッディ・スヴァバーヴァ」 <2>
タラン・タラン 現在のところ日本語訳未刊行
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さて、新しいカテゴリとしての「ブッタ達の心理学3.0」をスタートするにあたって、まずは、この「書」からスタートするのがふさわしいだろう。もともとは、英語や他の外国語どころか、インドの国内でもヒンズー語にさえ翻訳されていないのではないか、という文献。
小森健太朗氏の提供による資料だ。いくつかのプロセスを経て、日本語になったもので、いつかは書店にも並ぶだろうし、日本の公立図書館にも収蔵されるだろう。だが、今はたぶん、日本のどこにも出回っていない。
とはいうもののPDFファイルにしてもそれほどの数ではない。行数にしても、あっと言う間に「読めて」しまいそうなものだ。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と格闘した時に比べたら、なんとお手軽なことか、と思ってしまう。ところがどっこいそうはいかないのである。
「意識をめぐる読書ブログ」と自己規定している当ブログではあるが、じつに自己矛盾にみちている。ブログというアウトプットのコンテナを活用するために、読書というコンテンツを読みこむインプット作業をしながら、実は、そのコンテンツを超えているコンシャスネスについて語らねばならない。つまり、語られ得ないものを語るというパラドックスを根幹に持ってしまった、ということになる。
さて、このタラン・タランばかりでなく、Osho「私が愛した本」東洋哲学(インド編)においては、すべからく、これらすべての本において、その矛盾を抱えながら立ち向かわなければならない、ということになる。タラン・タランについては、本当に幸運なことにこうして資料の一部の提供を受けることができた。しかし、その他の資料については、その資料の存在の有無すら確認できないものが多い。
いっそのこと、このパートはカットしようかなとも思ったが、待て待てと自分を戒める。あの「私が愛した本」の「完読」を目指すばかりではなく、「ブッダ達の心理学」における「ブッダ達」とは誰か、という問いかけに対するヒントを探すなら、この部分はさけては通れないのではないか、と覚悟する。
もともと資料の引用は許されていないが、仮に許されたとしても、現在の私にはこの資料の本当の価値は分からない。それ相当の解説者のもとで学ばなければ、まったくと言っていいほど、その意味は理解できない。いや、文字面だけなら、類推を重ねれば、大体のことは要約できるかも知れない。しかし、そこに含まれた膨大な記号は、結局は私のものにはならない。
しかし、これでいいのではないか。「意味」や「理解」に落ちてしまうことによって、「意味」も「理解」も失うことがある。むしろ、「意味」も「理解」も、とても到達し得ないものとして、それがあるべきところにあるようにした時に、ひょっとすると見えてくるものもあるかもしれない。
ものごとは、不可視、であり、不合理であり、不可知の領域である。ゲシュタルトを転ずると、ひょっとすると、一瞬かいま見えてしまうこともあるかも知れないではないか。図地反転の瞬間が、まったくゼロとは、まだ決まっていない。
「読書」という作業が、文字や表現を追いかけるだけではなく、文字や表現に与えられた機能を超えて、まったく別な作用をすることが、ひょっとするとあるかも知れないのだ。いや、あるのだ。と、そういう期待感をもちながら、これらの存在達に触れていくのも面白いのではないかしらん。
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