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2010/03/21

現代霊性論

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「現代霊性論」
内田樹 /釈徹宗 2010年02月 講談社 単行本 300p
Vol.2 No.1002★★☆☆☆(残り22冊)

 当ブログ<1.0>における最後の一冊は内田樹の「村上春樹にご用心」だった。最後の最後、タロットカードの最後の一枚を引くような形で登場した本であってみれば、その時点では唐突ではあったが、そのあと、結局は村上春樹おっかけをすることになったのだから、まずは妥当性のある一冊であったといえるだろう。

 内田については「『街的』ということ」 の巻末にあった解説文程度しか読んでいなかったので、実際どんな人物なのかは知らなかった。ところが、ひょんなことでこの人の名前がでてきた。先日、古い友人に会い、互いのブログの話しになった。その時、私は彼にお勧めの本を三冊紹介してくれ、と言ってみた。彼は劇作家であり、本を読んでいる、という意味では、私の比ではない。しかも日々執筆に明け暮れている。

 いきなり言ったものだし、二人ともブログを書いているとは言え、それをお互い読んでいるわけでもないので、彼も戸惑ったらしく、すぐに三冊をだすことはできなかった。でも、ちょっと逡巡したあとに出てきたのが、この内田樹の名前だった。当ブログではちょうど「村上春樹にご用心」をもとに追っかけを展開中だったので、ほほほう、と、その親和性に、ほっとした。

 そこでなにはともあれ、お勧めされた「日本辺境論」をリクエストしておいたが、これがまたすごい人気本で、リクエストしてから二カ月近く経過するのに、いまだ私の前には数十人が順番待ちしているので、私が読めるようになるまでには、多分、あと半年以上かかりそうだ。

 そんなに面白い人なのだろうか、と、他の彼の古い本を実際に何冊か借り出してみた。数冊めくったところ、正直言って、タイムリーではなかった。当ブログに書き込むほどでもなく、また、流れにも沿っていない。

 そんな中でも、この「現代霊性論」は、おそらく内田の最新刊に属する一冊だと思える。こちらだってリクエストしてから結構時間が経過してから私の番になったのだし、すでに私の後にも、順番待ちが十数人いる。他の人のためにも、手早くさっさと読み終わって、返却しようと思う。

 内田はともかくとして、対談者のもう一方の釈徹宗という人もよくわからない。1961年生れの宗教思想が専門で、浄土真宗の僧侶でもあるらしい。本も何冊か出している。裏表紙の見返しに二人の写真が掲載されていて、なるほど、こういう二人が対談したのか、とちょっと「現代霊性論」という、重量のありそうなこの本のタイトルが、ますます重くなった。

 書く人が書けば「スピリチュアル・トゥディ」とか、「モダン・スピリット」とかいうタイトルにでもなりそうなものだが、敢えてこの二人の対談は「現代霊性論」と名付けられた。言いだしたのは内田のほう。どうやら女子大の連続講義として、対談が行われ、それに加筆した、というのが本書の成り立ちである。

 それまでWHOは「肉体と精神の健康」ということを大きなテーマとしていたんですが、人間は肉体と精神が健康であれば幸せかというと、そうじゃないだろう、WHOは人間の幸せを考える機関なのだから、もっとスピリチュアルな、霊的な問題をも取り上げよう、と。つまり、人間が幸せであるという状態は、肉体的にも精神的にも霊的にも健康であると考えようと、という話になったんですね。まぁ、しかしこれ、残念ながら、1999年のWHA(世界保健総会)という、WHOの最高意思決定機関で否決されまして・・・・。p011

 スピリチュアルを日本語すれば、霊性、ということになるのか。spiritual という英単語は、「スピリチュアル」という単語になることによって、十分、日本語化しているとは思うのだが、それをあえて「霊性」と言い直すところに、釈の存在意義というか、依って立つ場がある。

 これを否決したのはおもに先進国です。「現状ではそこまで言うのはちょっと早すぎるんじゃないか」ということで欧米の国々が反対しました。一方、このスピリチュアリティということを言いだしたのは、おもに中東、アフリカの国々だったそうです。p016

 思えば、当ブログは「地球人スピリット」を標榜しながら、結局は、この中東やアフリカに暮らす人々のヒューマニティや「スピリチュアリティ」に十分アクセスしきれていない。その証拠に、これらの地域からの当ブログへのアクセスは皆無である。これは重要な問題だ。なんとかしなければいけないと思う。

 そう言えば、高野山大学は2006年から、文学部にスピリチュアルケア学科を開設して、スピリチュアル・ケアの理論を学ぶ場を作ったそうです。これは、ターミナル・ケアの現場で行われてきた、霊的な痛み(スピリチュアル・ペイン)の緩和を広く社会や福祉や教育の現場で活用しようというものらしいです。p082

 たしかにこの動きには私にも注目していて、一体どうなっているだろうな、という関心は今でも持ち続けている。

 なにしろ現代のスピリチュアリズムは個人的な、ごく私的な体験を重視する傾向が強いんです。その手のものに足をすくわれないためには、伝統的主流宗教への理解や学習が必要だろうと思います。霊性はスピリチュアリティの「毒」を避けるためには、やはり体系的に制度宗教を知ることは必要じゃないでしょうか。伝統宗教教団は、長い間かかって鍛練されてきた鋼(はがね)のような体系を持っていますから。p085

 この辺あたりは、じっくり時間をかけて、お互いの言葉をほぐしあうところから対話していかないと、意味が通じないだろう。しかしそれであったとしても、釈は、その「伝統的宗教」とやらの側にどっぷりつかっているわけだから、私などはそもそもこの方との「対話」は最初から避けてしまうだろう、と思う。

 p121以降の「コナン・ドイルとスピリチュアリズム」などもなかなか興味深いものだあるが、それこそ小森健太朗の「英文学の地下水脈」あたりと合わせ読んだりしたら面白いかもしれない。だが、現在の当ブログにはその余裕はない。

 p161以降の「1975年という分岐点」という項目も関心深い。いろいろ共感する部分もあるが、敢えて付け加えておけば、この年、日本の若者文化カウンターカルチャーの総決算とも言える「星の遊行群ミルキーウェイ・キャラバン」が日本を縦断し、Oshoの「存在の詩」が登場した。

 p222以降の「『お清めの塩』の問題」も、なんだか身につまされる。昨日は、お彼岸でお墓参りしてきたし、正月には神社へ初もうでをする。教会に行けば、高らかに讃美歌を合唱してくる自分としては、まぁ、いろいろ狭い話題もあるなぁ、と、嘆息。

 なんだかこの本は、釈の言説が勝ってしまい、内田のキャラクターが十分でていないようにも思う。だが、巻末の「おわりに」あたりの釈の弁明を読んでいると、本に表れるキャラクターと、実際に感じるキャラクターには相当の違いがあるようだから、本を読んだからと言ってその人を理解したことにはなりそうにない。

 しかしまた、本を読む、ということの、その限界を知りつつ、「意識をめぐる読書ブログ」としての当ブログは、これまで通り、「読書ブログ」としてのわが道を歩いていくのであった。この本、申し訳ないが、お一方に一つづつ、合計ふたつの★をつけさせていだきます。

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