クレヨン先生と子どもたち 絵が伝える心のメッセージ
「クレヨン先生と子どもたち」 絵が伝える心のメッセージ
末永 蒼生 (著) 2006/9 ソフトバンククリエイティブ 単行本: 184p
Vol.2 No.1001★★★★★(残り23冊)
さて、1001冊目として登場するガッツのある一冊は、どれになるのだろうか、と我ながら、強い関心があった。この一冊で、当ブログ第2期のエンディングは大きく変わる。締めにかかっているものの、そのプログラムについては、まったくのフリーハンドだ。結局は、どのような結論になるのか、いまだわからない。図書館にリクエストしておいた本の中で、まずはこの本がすぐに近くにあった。
「クレヨン先生・・・・・・ねぇ・・・」。当ブログは鋭意、当グログ独自の意味でのZENマスター追っかけをしていたのだった。ちょっとそのイメージとは、離れすぎているなぁ、と思っていた。しかし、すこしづつ読み進めていくうちに、これもありなんじゃないか、と感じ始めた。気負って読まなかったからなお良かったのかも知れない。
40年前、僕の自由スタイルのアトリエは、子どもたちに思い切り精神的な冒険をしてもらえる場としてスタートした。外側から教え、与えるインプットの教育ではなく、子ども自身の内側にあるものを引き出すアウトプットの場。農業におきかえれば、いわば無農薬有機農法といったところだろうか。土の養分をしっかりと吸収したくましい根っこをもつ個性的な作物が育つ。p178「あとがき」
「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや、手毬をついたりしてよく遊んだ、という良寛のたとえもある。なるほど、クレヨン先生というZENマスターもあっていいのではないか。
「末永さんがやっているアトリエって、どんな指導をするんですか?」
アトリエを開いて以来、この質問を受けるたびに、「一切教えません。何を描くか、どう描くか、すべて子ども自身が決めていいんです」と答え続けてきた。子どもには持って生れた自己成長の力が備わっている。これが、自由スタイルのアトリエを運営してきた出発点である。p90
思えば、2010年の時点で45年の履歴のある末永アトリエの中でも、私自身が彼の書を読み、訪問したことある1970年代初頭は、極めて初期段階であったというべきだろうか。あれからでもすでに40年近くの時間が経過している。その後の彼の詳しい足跡を知っていたわけではないが、このように書として再会してみると、ああ、このようなライフストーリーがあっていいのではないか、と思う。
私自身もカウンセラーとしてクライエントと10年以上の付き合いをしたこともあるし、未就学児の女の子のカウンセリングを依頼された時は、2~3年間、二人で一週間に一度のお絵かきを楽しんだこともある。その時の、モデルは、やはり末永アトリエにあった。
もちろん、地方性もあって、なかなか口の重い来談者とのコミュニケーションをはかるために、積極的に成人のクライエントに対してもお絵かきスタイルを導入したこともあった。これは、期待した以上にすごい効果があった。言葉だけ、沈黙だけのカウンセリングでは、たぶん絶対的にでてこなかったであろう「事実」が飛び出してきたこともある。おもえば、これは河合隼雄のユング流、箱庭療法にも通じるものがあるはずだと感じられる。
20代でそんな意気込みで始めたアトリエだったが、子ども主体の教室スタイルというものが、仕事として成り立つのかどうか見通しがあったわけではない。
月謝をもらってアトリエを運営する以上、親はそれなりの成果を求めてくるはずである。アトリエというからには、絵らしい作品を子どもが持ち帰ることを期待するのは当然だろう。子どものストレス解消に役立ち情緒を安定させるだけのお絵かき教室に、どれだけの親が通わせてくれるだろうか。p90
現在、当ブログはもう一方でOshoの最後のZENシリーズを読み始めている。そこには、ジベリッシュとレット・ゴーを組み合わせた、ノーマインド瞑想が形作られている最中である。カタルシスとサイレンスの組み合わせ。敢えていうならこの「末永メソッド」はカタルシスのほうにやや傾き、「サイレンス」について、強調されることはない。
私自身のことを振り返ってみると、自分が「瞑想」と出会ったのは10歳のころだったと思う。当時、5年生、大好きだった担任の女性の先生の指導だった。帰りの時間にななると、教室の机を全部前に移動し、後ろにできた広い床に、全員で座る。そして、「反省会」と称して、ほんの数分だったと思うのだが、一日を「沈黙」でしめくくるのである。その時間だけは、私たちの教室から音が消えた。
せいぜい、3分程度であっただろう。ほんの瞬間的なものだった。何の意味があってやっているのか分からなかった。何の効果があったのかも定かではない。だが、彼女が担任を受け持っていてくれた2年の間に、その「サイレンス」はどれほど広く、深くなっていたことだろう。すくなくとも、後の自分が瞑想に興味をもつようになったのも、あの時点に原点があったのではないか、と思う時がある。
末永メソッドの中で、この「サイレンス」がどのように組み合わされているのかは、この本では定かではない。しかし、全体として見た場合、この面はもっと強調されてしかるべきだと思う。
いまでこそ子どものストレスケアや、心のセラピーに役立つことに社会が関心を抱く時代だが、60年代当時はストレスや癒しという言葉すら一般の暮らしには無縁だった。
しかし、僕の不安はやがて払拭されていくことになる。僕が出会ってきたすべての子どもたちが、絵を描く才能は誰にも生れつき備わっていることを示してくれたのだ。p91
2006年発行のこの本を見ると、多摩美術大学の非常勤講師となっており、1999年にはホノルル大学で心理学博士号を取得したとある(裏表紙)。必ずしもアカデミズムの中で生きていたわけではない著者にとって、このような肩書や経歴がどれほどの意味を持つのかはさだかではない。しかし、人生をこういう風に使って生きてみる、というのも、素晴らしい一生なのではないか、と、素直に思う。
著者にはほかにもたくさんの著書がある。追っかけをしているわけではないし、まとまって読んできたわけではない。だけど、目につけば自然と手に取って読みたくなる。小難しいことを書かず、一貫して子ども目線で、ものごとを平易に語り続ける著者の力は、決して凡ならざるものがあると、敬意をこめて今思う。
| 固定リンク
「43)ブッタ達の心理学3.0」カテゴリの記事
- 精神の哲学・肉体の哲学(2010.04.03)
- バガヴァッド・ギーター<6>(2010.04.03)
- 色はことのは Feel the colors <3>(2010.04.03)
- 魂の科学 <5> Osho(2010.04.03)
- The Zen Manifesto; Freedom from Oneself OSHO<10>(2010.04.03)
コメント