荘子 哲学者たちの死に方 The Book of Dead Philosophers<4>
<3>よりつづく
「哲学者たちの死に方」 <4>
サイモン・クリッチリー (著), 杉本 隆久 (翻訳), 國領佳樹 (翻訳) 2009/8 河出書房新社 単行本: 372p 原書 The Book of Dead Philosophers 2008
荘子(Zhuangzi : 前369~286年)
私の考えでは、中国古典哲学者の中でも、最も魅力的で機知に富んでいたのは、荘子である。孟子の高尚な道徳主義や、老子の格言や、孔子の道徳主義的な礼節とは異なり、荘子による哲学の世界は、言語学的にもまばゆく、思想的にも人の心を動かさずにはおれないものである。p95
通常、荘子の英語表記はChuang-tzu となるものと思っていたが、Zhuangzi という表記に出会ったのは初めてだったので、ちょっと新鮮に感じた。ウィキペディアなどでは、後者を採用しているようだ。当然のごとく、その他、多くの表記の仕方があり、どれが正しいとか争うような点ではないだろう。
しかし「荘子による哲学の世界」という表現は、いささか戸惑ってしまうのは仕方ない。老荘思想と一口に言われる世界であるが、老子とともに荘子は「思想」とは表現されることはあるけれど、いわゆる西洋哲学的センスでの「哲学」とは、いささか趣が違っているだろう。この本が多くの哲学本を書いている哲学者による、「哲学者たちの死に方」というタイトルの本であってみれば、この文脈では、荘子もまた「哲学者」の一人ということになってしまうのだろうか。
「中国古典哲学者の中でも、最も魅力的で機知に富んでいるのは、荘子である」という言い切りは、「中国古典哲学者」という限定の仕方には、いまいち納得はいかないが、その結論が「荘子」であってみれば、大目にみてあげよう、という寛容な心になることができる。
Oshoは「私の愛した本」p13の中で、「彼こそは最も愛すべき人間であり、これこそ最も愛すべき本だ」と語っている。列記するのもおこがましいが、先日、私は、「世界のスピリチュアル50の名著」を読んでいて、「この中の最後の一冊となれば、「荘子」、ということになるのではないだろうか。」という直感をメモしておいた。
荘子の道教解釈の核となっているのは、万物はその本性にしたがって配分されるべきであるという信条である。正しい行いとは、意志の力や空虚な思索に没頭することを通じて何か別なものになるよう強いたりせずに、存在する物事にしたがうことである。これが「無為」という考えに達する方法の一つである。それは何もしないという行為を意味するのではなく、物の本性にしたがって行動するということを意味している。p95
さすがに哲学者だけにあって、なかなか筋道たてて説明はしてくれるのだが、やっぱりわからない。ごまかされている感じがする。「物の本性」とは何か。つまり「私は誰か」が問われてないと、やはり「無為」も分からない、ということになる。
そう言えば、ふと、Oshoが荘子を題材とした講話録「虚空の舟」があったことを思い出した。当ブログは、第二期の1024冊の締めに向かって、最後の一冊探しをしているところである。なるほど、このような文脈から考えていけば、「虚空の舟」=「Empty Boat」もまた、当ブログ最後の一冊に成り得る可能性があるな、と思う。
しかし、それはOsho本の円環を繋ぎ、2500年の東洋の円環を繋ぐことになったとしても、ちょっと古すぎて、そして、常識的結論に帰結しすぎてはいないだろうか。少なくとも荘子に戻るにしても、Chuang-tzu なり、Zhuangziなりとして、何か新しいリフレッシュした切り口がほしい。
ところで、荘子はどんな「死に方」をしたのだろうか。
荘子が死を迎える際、弟子たちは儒教的な豪華絢爛な葬儀の準備にとりかかりたがった。だが、彼はこう言ってそれを拒んだ。「太陽と地球が私の棺になるだろう。」 すると弟子たちはこう意義を唱えた。「あなたのお体が、烏や鷲に食べられてしまうのが怖いのです」。すると荘子は、驚くような答えを出した。
火葬されない体は烏や鷲たちに食い尽くされてしまうだろう。だが火葬された体は蟻たちにすっかり食べられてしまうだろう。されば、おまえたちは烏や鷲の口から食料をひったくり、それを蟻たちの口に与えることになる。なぜお前たちは蟻に好意を示すのか。p96
先日、映画「おくりびと」のモデルとされる青木新門の「納棺夫日記」を読んだ。親鸞にまつわる思索や、葬祭業としての業務上のあれこれはともかくとして、あの小説では、本当に「死」を見つめているのか、「死体」を見つめているのか、分からなくなるところがある。
荘子はこう記している。
死と生は決して途絶えることのない変質である。この二つは始まったものが終わることではない。
我々がひとたびこの原則を理解すれば、生と死を平等に扱うことができるだろう。p96
思えば、当ブログを登録したのは2005年の9月だった。だが、何も書くことがなかった。ネット上の自分のパーソナリティをいかに作るかに悩んだ日々だった。無言、沈黙の日々。その沈黙を破らせたのは梅田望夫の「ウェブ進化論」だったが、それは半年後の06年3月のことだった。
あれから4年間。私は十分楽しんだ。いま、1024冊の読書のサイクルを二つ経過し、こちらのブログに移ってきてからも7つ目のカテゴリも108に達しようとしている。口の悪い友人たちは、私の名前と、おしゃべり瞑想ジベリッシュの名前を合成して、バヴェリッシュなどと冷やかしてくる。当たっているだけに、なかなか反論もできない(汗。
もし、当ブログがひとつの円環を求めるとすれば、それは一冊の本に帰結する、ということではなく、沈黙、静寂、虚空、そういう世界に戻っていくことだろう。荘子をめくっていると、自然に、素直に、そんなことが納得できるようになってくる。
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