哲学者たちの死に方 The Book of Dead Philosophers<2>
<1>よりつづく
「哲学者たちの死に方」 <2>
サイモン・クリッチリー (著), 杉本 隆久 (翻訳), 國領佳樹 (翻訳) 2009/8 河出書房新社 単行本: 372p 原書 The Book of Dead Philosophers 2008
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この本は、この半年の中ではもっとも気になっている本と言ってもいい。その証拠に、図書館から借りてきては延長し、返却してはまた借りてくる、という連続作業をやり続けている。幸いにして、ちょっと辺鄙なあの図書館には、私の他にこの本のファンはいないらしい。だから、ほとんどこの本は、半年間、私の独占状態だ。
この本について何度も書こう書こうと思っても、なかなか書けない。いや、書けないどころか、読めない。独占状態にして図書館から借りだしていながら、読めないとはこれいかに。前回読んでメモしておいたのが11月10日。年末に向けて仕事は忙しさを増していた。ようやく年末になり、正月を挟んで、当ブログはすっかりクラウドソーシングとしてのハルキ・ワールドおっかけに夢中になってしまった。
なかなかこの本に向かうチャンスをつかむことができなかった。だが、私の心にはずっと、底音としてこの本が鳴り響いていた。この本は、「2009年下半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10」の第2位に登場している。第1位に輝いた「新・平和学の現在」も大好きな本だが、今なら、この順には逆転しているかもしれない。
この世に平和が来ようが来まいが、私には必ず「死」はやってくる。「平和」より、「死」の問題のほうが、もはや差し迫った課題であり、重要度は日々ますます増してくる。
小さい時は自分はジャーナリストになるものだと思っていた。でもそれは10代から作っていた小さなミニコミを発行することによって、その欲望はすこし満たされた。20を超えてOshoのところに向かい、サニヤシンになったことによって、何かに「なった」という感覚はあった。しかし、それは社会的な意味合いのものではなかった。それを社会的な意味のあるものにしようと、心理学を学びカウンセラーになった。フルタイムのカウンセラーではなかったが、それは私の人生を豊かにした。人々と生きることの意味を何度も何度も繰り返し考えさえられた。
インターネット時代になる前から、私はパソコンの大ファンだった。その証拠に「携帯コンピュータ4級」(爆笑)という検定資格を持っている。Basicの数百行限りではあったがソフトにも挑戦したことがある。プログラマと自称することはできないが、あれから仕事の中の必須条件として登場したパソコンやインターネットには、他の人より先行して取り込むことができた。
もしこの世で、自分がジャーナリストや、カウンセラー、プログラマとして活躍できたら、基本的に、私は自分の人生はこれでよかった、と思ったに違いない。どの職業でも、立派な人生になったと思う。
幸か不幸か、私はこれらの三つの職業をフルタイムの自らの肩書とすることはなかった。いま就いている職業も、その名前に集約はできないが、それぞれの要素をいくらかづつ持っている。だから、今の職業を愛しているし、これはこれで、立派な人生になりえるはずだ、と自分では思っている。
あるいは、今こうして「意識をめぐる読書ブログ」なるものを、趣味として書き続けているのは、その自分が「なりたい」状況を補完するためと言っていいかもしれない。サニヤシンという「形容詞」も無駄ではない。必ずしも第三者に私の存在を理解してもらうのに役立つ用語ではないが、私の人生を量り知れないほど豊かにしてくれた。それはそれで、満足している。
しかし。いずれ、すべては「死」の前に顕わになる。すべての虚飾は脱ぎ棄てられる。いつか必ずやって来る。そして、すでに現役世代を終えなくてはならない人生の曲がり角に来て、私の人生の中でも、「死」はごく当たり前にやってくる機会を待っている。
若いころ、交通事故で、よもやあと一瞬の違いで死亡事故という惨事にあったことがある。かろうじて一命を取り留めたが、死がすぐ助手席に座っていることを意識した。あるいは病気で「余命半年」と宣言されたことがある。本人には告知されなかったが、体調や周囲の動向からそのことを知っていた。だが、生への執着が強かったか、やるべき仕事が残っていたか、私は死ななかった。
さらには、社会的な死という、生きながらにしての地獄も体験したことがある。このことは、小説にでもして書かない限り、私の人生のなかでは表現されないだろう。生々しすぎる。しかし、いずれにしても、私は三度「死」から立ち上がってきた。
バルーフ・デ・スピノザ 1632-77
死後に出版され、これまでに書かれた最も偉大な書物のひとつである「エチカ」の第4部で、スピノザは次のような定理を提起している。
自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなく、生についての省察である。
この定理の証明のなかで、スピノザは以下のように論じる。すなわち、自由の人間は理性にのみ従って生きる者であり、恐怖に支配されることがない。自由であることは直接に善を欲することであり、ひるむことも失敗することもなく、この欲望に固執するという仕方で行動し、生きることである。これが、自由な人間は何よりも死について思惟することが最も少ないということの理由である。
もし、精神に固有の、すなわち理性に固有の知恵としてスピノザが理解したものを私たちが用いるならば、そのとき私たちは死の恐怖に打ち勝ち、「エチカ」の最後のページで述べられた「至福」のようなものを成し遂げることができるだだろう。「至福」という言葉は、この著作のなかでこれまでまったく使われなかった言葉であるが、この「至福」は神に対する知的愛であり、スピノザは「精神が神を愛することの多ければ多いほど、それだけ死が有害でなくなるということである」と書いている。p199
スピノザは難解である。「エチカ」には、ヴァージョンを変えて、なんども挑戦しているが、いまだに「征服感」はない。難攻不落の絶頂としてそびえ立っている。何度もあそこに戻ることになるのだろう。今はふもとに立って見上げるばかりである。ふと、指を挟んで開いたページが、まずはスピノザであった。
この「哲学者たちの死に方」という本、例の「新刊本ベスト10」のトップにならなかった理由がある。「哲学者たち」というネーミングが悪い。ソクラテス、プラトン、老子、荘子、を始め、禅やキリスト教など、多くの具体的な人物たちを取り上げながら、すべてを「Philosophers」と括ってしまったところに、難がある。
私ならここで「Philosophers」を「ブッタ達」と読みなおしたい。そして「死に方」を「生きるための心理学」と読みなおしたい。「ブッタ達の<生きるための>心理学」。それが目下の、当ブログのテーマである。
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