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2010年4月の23件の記事

2010/04/25

ブッダのサイコセラピー


「ブッダのサイコセラピー」心理療法と“空”の出会い
マーク・エプスタイン /井上ウィマラ 2009/05 春秋社  単行本  331p
Vol.3No.0003★★★★☆

 この本、書店でタイトルを見て、さっそく近くの図書館にリクエストしておいたものだが、まだ一年前に発行されたばかりの新刊書なのに、図書館では購入してくれなかった。しかも近隣の図書館にはなく、遠く800キロほど離れた別の図書館から転送されて、最近ようやく私の手元に届いたものである。

 なんとなく時機を得た、素晴らしい本だと思うのだが、書籍のマーケット市場における価値はそれほど高くないのだろうか。リクエストした当時の私は、当ブログ<2.0>における、「ブッダ達の心理学3.0」というカテゴリーを進行中だったので、実は、そのカテゴリの中で、この本を取扱いたかった。

 しかし、その作業もすでに終わってしまい、<2.0>も休眠中につき、メモだけはこちらに残しておこうと思う。

 「ブッダのサイコセラピー」というタイトルは日本語版によるものであり、英語版のタイトルは「Thoughts Without A Thinker: Psychoserapy From Buddhist Perspective」というものである。日本語サブタイトルの「心理療法と”空”との出会い」も、なかなかそそられそうなフレーズではあるが、かなりニュアンスは異なる。

 直訳すれば、「考える人なしの思考:仏教徒的視野からの心理療法」とでもなるだろうか。当ブログのカテゴリ名「ブッダ達の心理学」とも、かなり距離感のあるものではある。しかしながら、この本自体の方向性には好感をもつことは可能であるし、実際に読んでみて、読みやすい副読本になっているとは言える。

 まず、相違点から言っておけば、当ブログにおけるブッダ達とは、必ずしもゴータマ・ブッダを指しておらず、老子やイエスやスフィー達ですら、ブッダ達、という概念に入ってくる。この本における「ブッダ」には、仏教徒達の伝統の中での、というニュアンスが多く含まれている。ゴータマ・ブッダ、その人ですらない。

 著者のマーク・エプスタインは、米国の精神分析家であり、医学博士でもある。そのクライエントとしているところは、当然のごとく欧米人であり、この本自体も、それら欧米向けに書かれたものである。もちろん、仏教や瞑想に対する造指も深く、的を外してはいないが、結局は、精神分析家としてこの本を書いているのであり、それ以上については書いていない。

 訳者は日本人で(あろう)あるが、曹洞宗とテーラワーダ仏教で出家したとのことで、のちに還俗したとの記述もある。いずれにせよ、禅とヴィパサナに長じた人物であろうし、その後、カナダ、イギリス、アメリカで瞑想指導にあたったということだから、国際的感覚も身につけておられよう。

 現在は高野山大学スピリチュアルケア学科准教授ということだから、現代日本における時機を得た職場に生息しておられる、ということになる。この大学のこの学科については、この数年、創立以来から関心を持っているが、なかなか内容については知ることができない。少なくとも、このような教員がおられるということで、多少は、なるほど、と納得することができる。

 私は、「仏教はセラピストとしてのあなたにどのような影響を与えましたか?」という質問を受けたとすれば、「影響されていない」と答えたくなることがよくあります。「セラピーをしているときはただセラピーをしているだけで、瞑想に興味を持っていることはそれとは関係ない」と答えたい自分がいます。 しかし、これは上滑りな答えです。私は、瞑想のおかげでよいセラピストでいることができます。治療の最も重要な局面で、患者の邪魔をしないでいるためにはどうしたらよいのか学んだのは、瞑想のおかげなのですから。p259

 邦訳の、どちらかというと日本人受けするように作りかえられている部分に比較すれば、もともとの原書は、もっと落ち着いて現状を踏まえており、決して浮足だったものではない。

 基底欠損に侵されやすい西洋人は、まず最初に、自分がどれほど感情的な痛みに同一化しているかを見つめなくては、仏教の無我について探求を開始することはできません。このプロセスは、セラピーあるいは瞑想だけを巻き込むことは稀です。双方からできるだけ手助けを必要とします。観察する自己を曇らせていた「暴力的な恨み」が解消されたとき、やり遂げるプロセスが実際に開始されます。p278

 西洋社会における「仏教」の発見は、禅、チベット密教、ヴィパサナ、の順に起こったと思われるが、それはあくまで、西洋社会における、という限定付きのできごとである。西洋社会のおける「東洋文化」のエキソチズムからの関心は、いましばらく続くとは思われるが、次第にそれは消滅していかなくてはならない、偽りの契機である。

 東洋社会、とりわけ日本社会のおけるサイコセラピーや心理療法もまた、舶来のなにか「新しい文明」の始まりのようなイメージを持たせられているが、決して、そのようなものであってはならない。カタカナで書くことによって、なにか「ブッダのサイコセラピー」が最新のものであるような勘違いをしてはならない。

 当ブログにおいては、東洋人のための、とか、西洋人のための、という視点からはすでに遠く離れてきている。あえて言うなら今は、「地球人」のためのスピリチュアリティが求められているのであり、それこそが、今後、世紀を超えて求められていかなくてはならない、重要な視点である。

 その「地球人」的視点から見れば、この本は、一歩近づいてはいるのだが、そこの至る道筋は書かれていない。あるいは、その視点すら考慮されていない、と言っても過言ではない。セラピーや「瞑想」などを強調するが故に、さらに、その帰結して存在してくるであろう、「エンラトメント」については、ほとんど触れられることはない。

 世にさまざまな職業があり、セラピスト、という職業も存在している。しかし、本来、瞑想やエンラトメントは、「職業」とは何の関係もない。まったく無関係と言ってもいい。しかしながら、瞑想やエンライトメントに関心を持ち、しかも、この世において職業を持とうすれば、比較的たやすくイメージしやすいのは「セラピスト」になる、という近道だ。

 近道ではあるが、真の意味においての「セラピスト」になることは容易なことではない。また、真の意味においてセラピストであったとしても、「瞑想」やエンライトメントに一切の関係をもたないこともありうる。

 このような二律背反的な二足わらじに関心のある向きには、この本は役に立つ可能性はあるが、真に瞑想やエンライトメントに自分の存在を向けようとした場合、この本は、避けて通れないほどの重要な一冊とはならない。

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2010/04/18

1Q84<6> BOOK3 読了

<5>よりつづく


「1Q84」 BOOK3 <6>
村上春樹 2010/4 新潮社 単行本  602p ★★★★★   

 休眠状態に入って、すこし静かにしていようという作戦であった当ブログ<2.0>へのアクセス数が、なぜかこの数日、予想外に急に伸びている。その一要因は「牛河」だ。4月16日に「1Q84」book3が発売され、天吾と青豆のほかに、急に新日本学術芸術振興会 専任理事 「牛河」がクローズアップされてきたのだ。過去の記事で、そのことに触れていた当ブログが検索エンジンにひっかかり、アクセス数が急上昇中、ということになった。

 そのbook3だが、先ほどようやく読了した。小説を発売当日に入手するなんてことも初めてのことだが、600ページを超える大作をその週末に読了してしまうなんてことも、始めての体験だった。感想はいろいろあるが、<2.0>は休眠中なので、先祖帰りしてこちら<1.0>にメモを残しておく。発売当初ということもあり、ネタばれしない程度に、雑感をランダムに記す。

1)これって、結局ハッピーエンド?

2)てっきりbook4もあるだろうと構えていたが、それは無しかも? 考えてみれば、「1月ー3月」編が存在するとすると、それは「1Q85」になってしまうので、すこし整合性が失われてしまう。

3)この小説でノーベル文学賞を取れるのか、と問われれば、まったくのシロートの私には「NO」としかいいようがない。与えられるとすれば、やはり、いままでの村上ワールド全体に対してだろうし、その頂点として、この作品が挙げられることもあり得るだろう。あとは、国際政治的なタイミングも問題となろう。

4)村上春樹作品の中の性描写があまり好きではなかったが、今回のこのbook3においては、それらは希薄になっているのではないか。

5)昨年、この作品の1、2が発表になった時は、カルトがどうの、左翼がどうの、という評論が続出したが、3においては、それらはすっかり影をひそめることになるだろう。

6)自他ともに許す小説苦手の当ブログにして、これだけの600ページの小説を一気に読ませてしまうのだから、多分、文体も、ストーリー展開も、時事性も、申し分ないぐらい超一流なのだろう。読ませられている方は、その技に気がつかない。

彼らがそのとき足を踏み入れたのは扉のない部屋だった。そこから出て行くことはできない。またそこれ故にほかの誰もそこに入ってくることはできない。そのときの二人は知らなかったのだが、そこは世界にただひとつの完結した場所だった。どこまでも孤立しながら、それでいて孤独に染まることのない場所だ。p551

7)まぁ、この部分がかなりのエッセンスの部分だとするなら、それはまぁ、当然のことというか、「世界のあらゆるところ」が「世界にただひとつの完結した場所」であるはずなのである。読んでいる読者に、ひとつの優越感や安堵感を与えはするが、絶対の真理ではない。

8)「牛河」はなぜ、これほど存在力を持ってクローズアップされてきたのか。ここではまだ多くを語らないでおこう。言い得ることは、ハルキワールドにおいて、牛河はなかなかの名脇役でありつつ、いつの間にか、主役をさえ担える存在に成長していた、ということだろう。

9)小道具としての車が、今回はあまり明瞭には浮き上がってこなかった。

10)「井戸」という単語はでてくるが、今回は「エレベーター」はなかったのではないか。児童公園の滑り台とか、首都高非常口の階段程度のものに、何事かの象徴を帯びさせようとしている。空や月、まぁ、それも深読みの対象にはなるのだろうが・・・。

とまぁ、あといくつか感想はあるが、もうすこし時期をずらして書こう。

<7>につづく

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2010/04/16

1Q84<5> BOOK3

<4>よりつづく

「1Q84」 BOOK3 <5>
村上春樹 2010/4 新潮社 単行本  602p Vol.3 No.0002★★★★☆

 特段に村上春樹ファンということではないのだが、行きがかり上、Book3も読みたいなぁ、と思っていた。いずれ読むことになるだろうが、今日16日発売ということは数カ月前から分かっていた。

 数日前に図書館に尋ねたら、当該図書館には5冊book3が入るという。そして、当日先着順に貸出になるというので、今日はさっそく、図書館の開館前の時間に並んでみた。

 30分前に行ってみると、30代くらいの女性が一人並んでいるだけ。ラッキー、これで、私も借りられることは確実になった。後から列に並ぶ人たちが居たので、結局は、開館と同時に5冊は借り出された、ということになる。

 自宅では、奥さんがオンラインで予約の入力。10時きっかりのスタートなので、バッティングもあったらしいが、なんとか20番台にエントリー。現在3時だが、あっと言う間に予約は200番台に入ろうとしている。

 相変わらず仕事も込んでいるが、時間を見て、昼休みに少し読んでみた。なるほど、あれがこう変わって、この展開か、と、いろいろ書きたいことはあるが、あんまり早すぎるネタばれは遠慮しておこう。

 まずは、今回は、発売日に図書館から1Q84を借りることができた、という記念のために、このメモを残しておく。本来であれば、<2.0>に書くべきなのだが、あちらは今のところお休み中であるし、内容的にも、こちらのほうがふさわしいように思うので、<1.0>に間借りしておくことにする。

<6>につづく

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2010/04/13

シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代


「シリコンバレーから将棋を観る」 
羽生善治と現代 梅田望夫 2009/04 中央公論新社 単行本 291p Vol.3 No.0001★★☆☆☆ ★★☆☆☆ ★★☆☆☆

 この本について書こうと決意してから、さて、どちらに書こうかいろいろ考えたが、結局、こちらにメモしておくことにする。

1)こちらの<1.0>が終了してからちょうど一年が経過した。

2)こちらのトップページが村上春樹のリンク頁になってしまっていて、ちょっと重すぎる。

3)<2.0>のほうは、現在第二期の1024冊の締めに向かっている最中で、ちょっと、その中では、この本はふさわしくないぞ。

4)もともとこちらの<1.0>は、著者=梅田望夫の「ウェブ進化論」からスタートしたのだった。その繋がりで、あの4年後の結末は、こちらに残すのもいいだろう。

 などなどの理由があった。

 とにかく、言っておきたいことはひとつだけ。

 当初、若干ライバル関係にあるのかな、と思った佐々木俊尚の最近著「2011年新聞・テレビ消滅」を読んだ時の違和感。つまり、コンテンツ→コンテナ→「コンベア」・論を読んで、それは違うだろう、と思ったこと。

 それに対して、一体、梅田望夫は、どんなスタンスでこの日々を送っているのじゃ、ということ。梅田こそ、コンテナ→コンテンツ→「コンシャスネス」、の方向に向かっているはずだ、という期待感。

 そしてその期待は裏切られなかったけれど、コンシャスネス・レベルでは、梅田望夫も、その目的地を探しあぐねているように私には思えた。

 つまり、当ブログは、ウェブ2.0という4年前の話題からはだいぶ離陸してしまったな、という実感があった、ということ。

 とりあえず、そういうことをメモしておく。

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2010/04/03

精神の哲学・肉体の哲学

精神の哲学・肉体の哲学
「精神の哲学・肉体の哲学」 形而上学的思考から自然的思考へ
木田元 /計見一雄 2010/03  講談社 単行本  333p
Vol.2 No.1024(最後の1冊)

 当ブログ第二期における1024冊目にして、最後の一冊はこの本ということにあいなった。読みたい本が他にもあり、図書館にリクエストしている最中のものもあってみれば、どの本がもっともこの位置にふさわしいのかを決定づけるのは難しい。

 しかしながら、物事が諄々と進み、実際にその本が手元にあり、しかもその本がごく最近の最新刊であったとするならば、その本をこの位置に置くことになんの躊躇もする必要はない。ましてや、読んで面白く、新しい地平に結びつくようなものであってみれば、まさにこの位置にはこの本がもっともふさわしいのであろうと、結語する。

 1939年生れの精神科医・計見一雄が、1928年生れの「反哲学」の巨匠・木田元に、7回に渡って個人講義を受けるという形になっている。二年ほど前の対談ということだから、およそ70歳の学徒が、80歳の老教授に教えを乞うているわけだ。

 その姿は、仏陀から舎利子へや、Oshoからのマニーシャへの呼びかけにも似て、もっと多くの学徒が聞きたいことを計見が代表して質問し、木田が、懇切丁寧に、これ以上、噛み砕けないというほどに平易に教える。なんとも、その問答が若々しい。後半は、むしろ、立場は逆転し、計見の職業的な見地からの識見に、木田が聴きいる場面も多くなる。

 思考が相対化され、意識が透明化される中で、言葉は失われていくのか。あるいは、意識は意識として意識されるなか、言葉は言葉としてその役割を果たし続けるのか。当ブログ的にとらえてみれば、ZENの中に言葉を無化して解け込んでいくのか、拡大するZENの中で、さらにカラフルな言葉を遊び続けるのか、という切実な課題となる。

計見--そこでは<精神>とか<心>とか<意識>というのはどうなるんでしょうね。

木田--これまたややこしい話になりそうですが、メルロ=ポンティの考え方では、行動のこのレベルにまで達した人間は、一般の動物の様に単に<生物学的環境>に適応して生きているだけではなく、そのつど現実に与えられている環境に、かつて与えられた環境、いつか与えられるであろう環境を重ね合わせ、それらをたがいに切り換えて、現に与えられている環境を、ありうる一つの局面としてもちはするけれど、けっしてそれに還元されてしまうことのないようなもう一次高い構造、つまり<世界>という構造を構成し、いわばそれに適応するようなかたちで生きるようになります。これがハイデガーが言いだし、メルロ=ポンティらも受け継いだ<世界内存在>という人間のあり方なんです。<世界>というのは人間によってつくり出されたシンボル体系としての<構造>ということになりますね。p313

 この本、なかなかそそられる。第三期をスタートさせる時があるとするなら、まずはこの本の再読から始めるのもいいかもしれない。

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バガヴァッド・ギーター<6>

<5>よりつづく
バガヴァッド・ギーター
「バガヴァッド・ギーター」 <6>
鎧淳 2008/03 講談社  文庫 275p

 いま、この時期、自分が自分のために読んで聞かせたい本として選ぶとするなら、この本が最右翼として登場することだろう。季節は春を迎え、内なる衝動が揺動する。怖気づく自分を奮い立たせ、いざ、新たなる内なる道へと進みゆかん。

 第一章

 ドリタラーシュトラ王は訊ねました。

 聖なる大地、クルの野に、戦わんとして蝟集せるわが殿ばらと、パーンドゥの徒は、なにをかなせる、サンジャヤよ。

 サンジャヤは答えました。

 ときに、ドゥルヨーダナ王は、パーンドゥ勢の布陣したのを見て、ただちに、師父(=ドローナ)のもとに歩み寄り、次のように申しました。

 「師よ、ご覧あれ、ドゥルパダの子、御身の賢しき教え子により布陣されたる、これなるパーンドゥの子らの大軍を。

 そなたには、いくさの園でビーマ王、アルジュナ王子にもならぶ、名うての弓取り、猛き武士ユユダーナやヴィラータ王、また大将軍なるドゥルパダ王、

 ドリシュタケートゥ、チェーキターナ、勇猛果敢なカーシー国王、プルジット、クンティポージャ、無双の弓取りシビ国王、

 勇猛無双のユダーマンユ、勇猛果敢なウッタマウジャス、またスバドラー妃の王子や、ドラウパディー妃の王子たち、いずれも由々しき大将軍なる。

 さて、われらがうちの名だたる面々、わが軍勢の将士たち、そを知り給え、バラモンよ。ちなみに、そを御身に告げ申さん。

 御身と、ビーシュマ、カルナ王、一騎当千クリパ王、アシュヴァッターマンにヴィカルナ王、加えて、それにソーマダッタの子、

 その上、さらに、さまざまな武器を押っ取り、わがために、身命惜しまぬ数多の精兵、いずれも百戦錬磨なる。

 ビシューマにより護らるる、これなるわれらが軍は無勢。片や、ビーマ王により護らるる、あれなるかれらの軍は多勢なり。

 されば、あらゆる駆け引きに、もち場、もち場に踏み止まり、御身の方はみなこぞり、ビーシュマをのみ護り給え」。

 彼の猛き心を奮い立たせつ、クルの長老、武威かくれなき大伯父(=ビーシュマ)は、獅子吼して、高らかにほら貝を吹き鳴らしました。p28

<7>につづく

 

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The Zen Manifesto; Freedom from Oneself  OSHO<10>

<9>よりつづく 

 

Manifest The Zen Manifesto; Freedom from Oneself <10> 
Osho (Author) February and April 1989 Publisher: Rebel Publishing House Hardcover 296 pages Language: English
Vol.2 No.1023★★★★★(残り1冊)
Osho最後のZENシリーズ目次  

 The Zen manifesto is not for a particular type, it is for all- for men and for women, and for black and white, and for Hindu and Mohammedan, and for Christian and Buddhist.

  It does not matter what kind of conditioning you have been brought up in, Zen is simply a technique of entering into you veryness.

  The entrance is so deep that nothing remains, and all is found. Osho front flap

  It is time, ripe time for a Zen manifesto.

  The Western intelligentsia have become acquainted with Zen, have also fallen in love with Zen, but they are still trying to approach Zen from the mind. They have not yet come to the understanding that Zen has nothing to do with mind.

  Its tremendous job is to get you out of the prison of mind.

  It is not an intellectual philosophy;it is not a philosophy at all. Nor is it a religion, because it has no fictions and no lies, no consolations.

  It is a lion's roar.

  And the greatest thing that Zen has brought into the world is freedom from oneself. Osho back flap

 

<11>につづく

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魂の科学 <5> Osho

<4>よりつづく 
魂の科学
「魂の科学」 <5>パタンジャリのヨーガ・スートラ
OSHO/沢西康史 2007/04 瞑想社 /めるくまーる 単行本 301p

 この期に及んで、あれも読みたかった、これも何とかしたかった、と念の残ること、はなはだしいが、その中にあっても、特に、この本はもっとなんとかしたかったなぁ、と思う。でも、どうにもならなかったのは、読み手としての、自分の機縁がまだやってこなかったのだろう、と諦めることにする。

私たちは深い幻想のなかに生きている。
希望、明日、未来という幻想のなかに。
人はそのままでは、自分を騙さずには存在することができない。
ニーチェはどこかで、人は真実とともに生きることはできないと言っている。人は存在するために夢を必要とし、幻想を必要とし、嘘を必要とする、と。
そしてニーチェは正しい。
人はそのままの状態では、真実とともに存在することはできない。
これはとても深く理解されなければならない。
というのも、それを理解しないかぎり、ヨーガと呼ばれる探求に入っていくことはできないからだ。
Osho p9

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色はことのは Feel the colors <3>

<2>よりつづく 

Photo_4   
「色はことのは」 Feel the colors <3>
末永蒼生・文 /内藤忠行・写真 2003/10 幻冬舎  単行本 159p

 この時期、この本にはもっと触れたかったと思う。転記すべき個所もまだまだある。だが、この本のある部分がどうも私にストップをかけた。色はことのは。ひたすら文字マンダラを追いかけてきて、もううんざりだな、という時に、あざやかな原色が、それぞれのページからこぼれおちてくるようなこの本には、ほんとにびっくりした。数ある末永本では、この本が最高だな、自分でも一冊ほしい、と思っていた。

 だが・・・、この本に限ったわけではないのだが、著者プロフィールにある1999年ホノルル大学で博士号取得、という文言がどうも気になってしまった。彼の経歴の中で、長崎の高校を卒業して上京してきたことは分かっていたが、その後のことは詳しくは知らないし、あまり知る気もなかった。だけど、気になったのでネットで検索してみると、この大学の「フェイク」な感じがいろいろと表現されている。

 一体、著者はこの大学から学位を得るという、自らの行為の「フェイク」性に気付いていたのだろうか。あるいは、「被害者」なのか? そんなことはないだろう。かなりの長期に渡ってこの経歴が著書に印刷されている。2007年3月にはNHKの「ようこそ先輩」に登場しているので、少なくとも長崎市立諏訪小学校を卒業しているのは間違いなさそうだ。

 弟君の末永朱胤(あかたね)氏はどうなっているのだろうと、検索してみると、なかなかの経歴でアカデミズムの中に生息しているように見える。「2002 年 12 月 パリ第 10 大学博士課程言語科学科博士論文課程修了 取得学位:言語学博士(パリ第 10 大学)」とあるから、この時期、数年の間に、兄弟二人して、博士になったことになる。弟君には、互いに10代の頃に会ったことがあるから、これは慶賀なことだと、素直に祝福したい。

 そう言えば、二人の父親は、家族をおいてフランスに旅立ってしまったのだったかもしれない。そういうことを聴いた気がする。パリ第 10 大学とはどんな大学なのか知らないが、当ブログには、パリ第7大学、というところからアクセスされたことがある(笑)。まぁ、そんなことはどうでもいいが、この兄弟に「蒼」と「朱」の二つの名前を使い分けた、画家の父親の色彩感性が、なんともあざやかだと思う。

 ちょっとやましい気分になった私は、もうすでにこの本を図書館に返却してしまったが、それは、ちょっとやりすぎだったかな、と思う。フェイクはフェイクでいいではないか。そのフェイクさを堂々と生きる在野の「クレヨン先生」が、多少の学位商法を利用しようとしていたとしても、笑ってすませることができる範囲ではないのか、と思い直してみる。

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2010/04/02

Christianity, the Deadliest Poison & Zen, the Antidote to All Poisons OSHO <1>

Christianity
Christianity, the Deadliest Poison & Zen, the Antidote to All Poisons  <1>
Osho (Author) January 1989 Publisher: Rebel Pub. House Hardcover  330 pages

Vol.2 No.1022★★★★★(残り2冊)
Osho最後のZENシリーズ目次 

Faith is not a virtue, and it is not a great contribution to humanity's evolution. Faith is the greatest hindrance in people's search for truth.

Before you go in search you have already been handed a secondhand, dirty faith, and you are told that  just this much is enough; you don't have to search, Jusus has done it for you, Buddha has done it for you.....

Faith simply means hiding ignorance, and it is very cheap.

Truth needs  great energy, great urgency, and a total involvement in the search. Truth is within you, faith comes from outside.

Anything that comes from  outside is not going to help you.

Truth is already alive in you, you don't need any faith, it is faith  which has kept humanity ignorant.

Christianity and all other religions are part of conspiracy to castrate man.

They have destroyed  all the dignity of man, they have given him only guilt and sin. Hence I call Christianity the deadliest poison. OSHO front flap

It is time to get rid of  Christianity - and all  so-called religions, which are different versions of the same stupidity.

Man need absolute freedom from the past. Only then can he live in the moment responsibly, and only then can he create a new future, for the coming humanity - a superman, a better man than the pygmies of the past who were just slaves and nothing else. OSHO back flap

continue to <2>

 

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タルムードの世界

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「タルムードの世界」
モリス アドラー (著), 河合 一充 (翻訳) 1991/07 出版社: ミルトス 単行本 194p
Vol.2 No.1021★★★☆☆(残り3冊)

 避けたかった本だが、どうやらそれは無理なようだ。それは繰り返し鼻を突っ込んでくる・・・・・もちろんユダヤ人の本だ。さもなくてどうしてあんなに長い鼻が持てるかね? 「タルムード」だ。

 なぜ私はこれを避けようとしたのか? これまで私がいつもそうしてきたように、何かユダヤ人に対して反対のことを言えば・・・・そして私はそうし続けるつもだが・・・・、だがほんのいっときだけユダヤ人に反対するのは止めよう。ほんのいっときだがね。まぁ、ちょっとした休暇のようなものだ。

 そういうわけで私はこの本を避けたかった。そこにたったひとつだがすばらしい文章がある。それだけだが。だからそれを引用しよう。そこには「神は恐ろしい。神はお前の叔父さんではない。神は優しくない」とある。ただひとつのこの文章、「神は優しくない、そしてお前の叔父さんではない・・・・」というのが私は気に入っている。これは本当にすごい。その他は、この本は全部たわごと(ジベリッシュ)だ。初めから終わりまであまりに原始的で、投げ捨てるべきものだ。

 この本を放り出すとき、ただひとつこの文章だけは取っておきなさい。自分の寝室にこれを書いておきなさい。「神はお前の叔父さんではない。神は優しくない」とだ----いいかね! それはお前たちが自分の妻や、夫や、子どもや、召使いや・・・・・あるいは自分自身に対しても何か馬鹿げたことをしそうになったとき、自分を正気に戻してくれるだろう。OSHO「私が愛した本」p200

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インテグラル・スピリチュアリティ<8>

<7>よりつづく  
インテグラル・スピリチュアリティ
「インテグラル・スピリチュアリティ」 <8>
ケン・ウィルバー /松永太郎 春秋社 2008/02 単行本 469p

 IOSとは何か 
 IOSとは、「統合作動システム(Integral Operating System)のことである。情報ネットワークの世界では、オペレーティング・システムとは、さまざまなソフトウェアを作動させる基礎的なシステムのことである。
ケン・ウィルバー p6

 過去15年ほどの間に、コンピュータが日常生活に入り込み、私たちの生活のありようは一変したと言っても過言ではない。もともとまったくのシロートながら、これらのIT関連の変化にも、自分なりの関心を寄せ続けてきた。とくにパソコンの進化や、OS論争、とくにリナックスの登場などにも強い刺激を受けた。

 当ブログにおいても、そのカテゴリ名に OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2 等と残っているように、そのオペレーティング・システムとやらに、何事かの期待や幻想をもったことは事実である。それらの思い込みや試みは決して功を奏したとは言えないが、雑然と散乱している事象をすこしづつ統合する役割として、その発想自体は大いに役立ってくれたと言える。

 統合への衝動として、マンダラ的指向性も役立ってくれた。いくつもの、当ブログなりのマンダラを描いておいたが、これらもまた、いつかはその統合的パワーを生み出してくれるに違いないと、個人的には密かに期待しているところである。

 もともとケン・ウィルバーは得手ではないが、この時期、これだけ惹きつけられるということは、もともと彼自身が持っているパワーがあるのだろうし、それに引き寄せられてしまうこちらにも、何事かの不足感があるに違いない。

 この本においても著者のやろうとしている方向性は分かるのだが、それを逐一検証していくまでには至っていない。その妥当性も、正統性も、いまだ不明なままだ。しかしながら、魅力はいまだに色あせてはいない。

 当ブログ、第二期もほぼ数量が定量に近づいている。残る期間にこの本一冊を読むことさえ容易ではないが、それでも、やっぱり気になる一冊として、ここにメモしておく必要はあるだろう。捲土重来、再読を期す。

<9>につづく

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NO MIND: The Flowers of Eternity OSHO<4>

<3>よりつづく 
Nomind
NO MIND: The Flowers of Eternity <4>
OSHO 1989 Publisher: Rebel Pub. House Hardcover pages Language: English
Vol.2 No.1020★★★★★(残り4冊)
Osho最後のZENシリーズ目次 

Flowers are showing,
a new breeze.....
a fresh fragrance,
an open sky full of stars.
A sense of etrenity....    
To know this
is all there is to know. back flap

 

<5>につづく

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シヴァ・ブリ・ババ ベネット OSHO「私が愛した本」<71>

<70>からつづく    
Photo  
「私が愛した本」 <71
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p

「シヴァ・ブリ・ババ」ベネット

 1冊目の本は、ベネットによるものだ。彼は英国人、完璧な英国人だ。その本はまったく知られていないインドの神秘家シヴァ・ブリ・ババについてのものだ。世界はベネットの本を通して初めてのこの人を知った。

 シヴァ・ブリ・ババが、最も稀なる開花のひとりだったことは間違いない。実にたくさんの白痴たちが大聖者(マハトマ)のふりをしているインドにあってはなおさらのことだ。インドではシヴァ・ブリ・ババのようは人を見つけるのは本当の幸運か、もしくは大変な探求の賜物だ。インドには50万人のマハトマがいる。これは実際の数字だ。こういう群衆の中に本物の人物を見つけるのはほとんど不可能だ。だがベネットは、いろいろな意味で幸運だった。彼はグルジェフを発見した最初の人間でもある。それはウスペンスキーでもなければニコルでもない、他ならぬこのベネットだった。p229

 ベネットが出会ったとき、シヴァ・ブリ・ババは非常な老人だった。彼はほとんど110歳に手が届くほどになっていた。彼は本当に鉄でできていた。彼はほとんど1世紀半も生きた。彼は7フィートの長身で、110歳になりながらも老衰の兆しを見せていなかった。彼は自分で肉体を離れる決意をした。それは彼の決定だった。

 シヴァ・ブリ・ババは寡黙な人だった。彼は教えることをしなかった。特にグルジェフとその途方もない教えを知った者にしてみれば、シヴァ・ブリ・ババの許にいることはごく平凡なことに思えたはずだ。ベネットは本を書き、そして再び師を探し求め始めた。その時シヴァ・ブリ・ババは、まだ死んでもいなかった。p233

 彼の最上の著述は、「シヴァ・ブリ・ババ」だ。ベネット本人は馬鹿者であるにもかかわらず、猿でもタイプライターの上に座らせれば、あちこちのキーをただ叩いているうちに、時には素晴らしい言葉---もしかしたら仏陀のような人にしか言えないような言明---を書くことがあるのかも知れない。だが彼は、自分が書いたものを理解することはない。Osho「私が愛した本」p234

<72>につづく

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私の愛するインド 輝ける黄金の断章 <2>

<1>よりつづく

India2_2 「私の愛するインド」 輝ける黄金の断章<2>
OSHO /スワミ・プレム・グンジャ 1999/11 市民出版社 単行本 257p
★★★★★

 インドに偉大な神秘家がいた。ファリッドだ。誰かが彼に金の鋏を献上した。非常に高価で、ダイヤモンドが散りばめられていた。一人の弟子が師に何かプレゼントをと思い、それが稀にみる芸術品だった。しかしファリッドは言った。

 「その鋏じゃ何もできんよ。私に何かをと思うなら針に糸だ。なぜなら私は、ものとものを繋ぎ合わせる愛の行者だからな」

 ファリッドは、カビールやナナク、そして他の人々と同時代の人だ。
 私は彼が好きだ。
 彼の歌の中で、彼は自分をファリダと呼ぶ。
 彼は常に自分に向かって話しかけるが、決して自分以外の人には話しかけない。
 彼はいつもこのように始める。
「ファリダ、聞いているか。ファリダ、起きるんだ! ファリダ、これをやれ、あれをしろ!」

 ヒンドゥー語で、ファリッドの名前を用いるのは礼儀にかなっているが、ファリダの名前を用いるのは礼儀にかなっていない。そのような呼び方は、人が召使いを呼ぶ時だけだ。ファリッドは自らをファリダと呼ぶ。それは彼がマスターだから---肉体が召使いだからだ。

 ファリダは本を書かなかったが、彼の歌は弟子達によって書き留められた。
 彼の歌は途方もなく美しい。
 だが、パンジャブ語で歌われたものを聞かなくてはだめだ。
 彼はパンジャブに住んだ。
 彼の歌はパンジャブ語のものだ。本当に心を沁みる歌だ。
 パンジャブ語で歌われたファリッドの歌を聴いたなら、
 あなたのハートは変容し始める。
OSHO p210 

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2010/04/01

ISAN: No Footprints in the Blue Sky OSHO <1>

Isan ISAN: No Footprints in the Blue Sky <1>
OSHO (Author) October 1988 Publisher: Rebel Pub. House Hardcover: 185 pages Language: English

Vol.2 No.1019★★★★★(残り5冊)
Osho最後のZENシリーズ目次 

 Isan was as great a master as one can be, but he has left behind him neither great scriptures nor great commentaries.

  He is a great master, but almost forgotten. Who remembers pepole who have not created great follwings, who have not made organized religons, who have not chosen their successors, who have not made their religion a politics, a power in the material world? Isan did none of that. He simply lived silently. Of course thousands of disciples were attracted towards him, but it was not his fault. You cannot blame him  for it -- it was just the magnetic force that he had become by disappearing into enlightenment. Osho back flap

<2>につづく

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一次元的人間 H・マルクーゼ 

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「一次元的人間」
H・マルクーゼ (著),  生松 敬三 (訳), 三沢 謙一 (訳) 1974/04 河出書房 単行本 p286 新装版1980/06
Vol.2 No.1018★★★☆☆(残り6冊)

 12番目。この状況の故に、私はヘルベルト・マルクーゼの本、「一次元的人間」を選ぶ。私はこの本には反対だが、彼はすばらしい本を描いた。私がこれに反対なのは、人間は多面的であって初めて、一次元ではなく可能な限りあらゆる次元に広がって初めて充足されることを知っているからだ。「一次元的人間」は、現代人の物語だ。これが私の12番目の選択だ。Osho「私が愛した本」p194

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精神の運命ウィリアム・S・ハース OSHO「私が愛した本」<70>

<69>からつづく    
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「私が愛した本」 <70
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p

「精神の運命」ウィリアム・S・ハース

 ハースによる「精神(マインド)の運命」だ。この名前はどう発音するのかわからない--H-A-A-S--だ。私はハースと発音している。この本があまりよく知られていないのは、これがあまりにも深遠だという単純な理由による。このハースという男はドイツ人に違いないと思う。それにしても、この上もなく意味の深い本を書いたものだ。彼は詩人ではない。数学者のように書く。私に「フィロシィア」という言葉をもたらしたのは彼だ。

 哲学(フィロソフィ)とは、「知恵を愛すること」を意味する。フィロは愛、そしてソフィアは知恵だ。だがこれは全体を見る東洋的方法、ダルシャナには適応できない。哲学はどぎつい。

 「精神の運命」の中で、ハースはダルシャナを表す言葉として「哲学」ではなく、「フィロシィア」という言葉を使っている。「フィロ」はやはり愛の意味だが、「オスィア」は真理、実在、究極の実在を意味する。知識とか知恵を愛することではなく、真理を愛することだ。その真理が口に合うものであるかどうかは問題ではない。

 これは東洋と西洋を近づけた本の一冊だ。ただし近づけただけだが。本にそれ以上のことはできない。出会いが起こるためには人間が必要だ。本ではない。そしてハースはそのような人間ではなかった。彼の本はすばらしいが、本人はごく普通の人だ。本当の出会いのためには、仏陀や、ボーディダルマ、イエスや、モハメッド、バール・シェムが必要だ。ひとことで言えば、瞑想が必要なのだ。

 そして私は、このハースという人が瞑想したことがあるとは思わない。集中ならしたことはあるかも知れないが・・・・・。ドイツ人は集中についてなら大いに知っている・・・強制収容所とは、大したものだ! 私が開いてきたのは瞑想キャンプだ。そして彼らが開いていたのは集中キャンプだ! 

 集中はドイツ的だが、瞑想はそうではない。たしかに時たま、ドイツにさえ瞑想者が現れることがある。だがそれは法則ではなく、例外にすぎない。そして例外は常に法則を証明する。私はエックハルトを知っているし、またベーメを知っている・・・・・。Osho「私が愛した本」p122

<71>につづく

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RINZAI : Master of the Irrational OSHO <1>

RinzaiRINZAI : Master of the Irrational <1>
OSHO (Author) September 1989 Publisher: Rebel Pub. House Hardcover: 191 pages Language: English
Vol.2 No.1017★★★★★(残り7冊)
Osho最後のZENシリーズ目次 

 Rinzai would shout at his disciples to give them a first experience of their centering. You are both a circumference and a center. You live on the circumference; the shout simply pushes you to the center.

  Once you experience being at the center you suddenly see the whole world changing.  Your eyes are no more the same..... back flap

<2>へつづく

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河の島 サッチダナンダ・ヴァチャヤーナ OSHO「私が愛した本」<69>

<68>からつづく    
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「私が愛した本」 <69
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p

「河の島」サッチダナンダ・ヴァチャヤーナ

 この本は、ヒンディ語の小説で、まだ英語に翻訳されていない。私のような人間に挙げられるおは奇妙なのだが、挙げるだけの価値がある。ヒンディ語のタイトルは「ナディ・ケ・ディップ」といって、翻訳してみれば「河の島」ということだ。そしてこれを書いたのはサッチダナンダ・ヴァチャヤーナだ。この小説は、瞑想したい者のためのものだ。瞑想者の小説だ。他のどの小説も、トルストイのものも、チェホフのものも、これに比べることはできない。これがヒンディ語で書かれていることは残念だ。

 すこし待ちなさい。あまりすばらしいので、何かを言うよりむしろ、これを楽しんでいたい。この高みで話しをするのは実に難しい。どうか邪魔をしないでもらいたい。Osho「私が愛した本」p194

<70>につづく 

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バハウディンの書 OSHO「私が愛した本」<68>

<67>からつづく    
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「私が愛した本」 <68
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p

「バハウディンの書」 

 私が話そうと思っている本はスーフィーの本、「バハウディンの書」だ。最初のスーフィーの神秘家だ。バハウディンがスーフィズムの伝統を生み出した。その小さな本には、すべてが含まれている。それは種子のようなものだ。愛、瞑想、生、死・・・・彼は何ひとつ除外しなかった。これについて瞑想するがいい。Osho「私が愛した本」 p151

<69>につづく 

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JOSHU the Lion's Roar OSHO

JoshuJOSHU the Lion's Roar 
OSHO (Author) October 1988 Publisher: Rebel Pub. House Hardcover: 185 pages Language: English
Vol.2 No.1016★★★★★(残り8冊)
Osho最後のZENシリーズ目次  

 Joshu is one of the most loved masters in the Zen tradition. Threr have been great masters, but nobody has been loved so much as Joshu--and he deserved it. His working on people, on disciples was so soft, so delicate, that only a poet can manage it..... a great craftmanship in carving buddhas out of the stones of humanity.

 Every man is just a big rock. It needs a craftman, a great artist, a sculptor, who with loving hands removes all that is unessential and leaves only that which is absolutely essential.

 That absolutely essential is your buddha.  OSHO back flap

cotinued to <2>

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ヘラクレイトスの言葉

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「古代哲学史」
 <付>ヘラクレイトスの言葉
田中美知太郎 1985/09 筑摩書房 全集/叢書p233
Vol.2 No.1015★★★★★(残り9冊)

 さて、当ブログの第2期も次第にフェードアウトしようとしている。いままで記録されずに残っていたものを順序よくメモしていくだけのスケジュールになりつつある。予定されていた道筋のようでもあり、まったく予想外の展開のようでもある。

 この本は、ネット上にほとんど情報がない。1985年発行だから、まだまだ新しい本なのだが、派手さはまったくない。だけれども、このような本こそ、人知れず、じっくりと読まれる価値がある。

 同じ河に二度入ることはできない。散らしたり、集めたりする。・・・・・出来上がり、またくずれ去る。加わり来たって、また離れ去る。p215

 これら哲人や賢人たちの森に入ってしまえば、凡の凡たる当ブログなどは、何の言葉も挟むことはできない。ひたすら、沈黙を保ち、自らの内を静かにして、先哲たちの言葉に耳を傾けるしかできない。

 Oshoもヘラクレイトスについて語っている。

 一番目、ヘラクレイトスの「断片」。私はこの男を愛している。ついでだが、欄外の注として言わせてもらいたい。私はこれらの本をすべて愛してはいるが、全部が好きではない。好きなものもあるが、好きでないものもある。だがすべてを愛している。それについては、まったく疑問はない。私はヘラクレイトスを愛しているのと同じように、ジャヤ・デヴァを愛している。だがヘラクレイトスの方は好きでもある。私がヘラクレイトスと同じ範疇に入れることができる者は、ほんのわずかしかいない。

 実際はそう言うことでさえ真実ではない。同じ範疇に入れられる者はひとりもいない。今私が言っていることは、いつも本当に言いたいと思っていたことだ。くり返そう、ヘラクレイトスと同じ範疇に入れられる者はひとりもいないと。彼こそはまさに過激(ファーラウト)だ。危険なまでに目覚めていて、自分が言っていることのもたらす結果を恐れない。

 彼はこれらの「断片」の中で---これもまたデヴァギートの、つまり弟子の記録だ。ヘラクレイトスは書かなかった。何か理由があるに違いない。こういう人たちがなぜ書かないのかの理由が。だが、それについてはもう少し後だ。ヘラクレイトスはその「断片」の中で、「同じ川に二度と足を入れることはできない」と言う。そうしてから彼は、「いや、一度ですら同じ川に足を入れることはできない・・・・・」と言う。これは途方もなくすばらしい、そして真実でもある。

 あらゆるものは変化している。しかもその変化があまり速くて、同じ川に二度足を入れることができないほどだ。同じ川に一度足を入れることすらできない。川は絶えず流れている。流れて、流れて、海に向かって、無限なるものに向かって流れて行く。未知なるものの中に消えて行く。

 これが私の今夜のリストの一番目だ、ヘラクレイトスだ。OSHO「私が愛した本」p42

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