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2010/04/25

ブッダのサイコセラピー


「ブッダのサイコセラピー」心理療法と“空”の出会い
マーク・エプスタイン /井上ウィマラ 2009/05 春秋社  単行本  331p
Vol.3No.0003★★★★☆

 この本、書店でタイトルを見て、さっそく近くの図書館にリクエストしておいたものだが、まだ一年前に発行されたばかりの新刊書なのに、図書館では購入してくれなかった。しかも近隣の図書館にはなく、遠く800キロほど離れた別の図書館から転送されて、最近ようやく私の手元に届いたものである。

 なんとなく時機を得た、素晴らしい本だと思うのだが、書籍のマーケット市場における価値はそれほど高くないのだろうか。リクエストした当時の私は、当ブログ<2.0>における、「ブッダ達の心理学3.0」というカテゴリーを進行中だったので、実は、そのカテゴリの中で、この本を取扱いたかった。

 しかし、その作業もすでに終わってしまい、<2.0>も休眠中につき、メモだけはこちらに残しておこうと思う。

 「ブッダのサイコセラピー」というタイトルは日本語版によるものであり、英語版のタイトルは「Thoughts Without A Thinker: Psychoserapy From Buddhist Perspective」というものである。日本語サブタイトルの「心理療法と”空”との出会い」も、なかなかそそられそうなフレーズではあるが、かなりニュアンスは異なる。

 直訳すれば、「考える人なしの思考:仏教徒的視野からの心理療法」とでもなるだろうか。当ブログのカテゴリ名「ブッダ達の心理学」とも、かなり距離感のあるものではある。しかしながら、この本自体の方向性には好感をもつことは可能であるし、実際に読んでみて、読みやすい副読本になっているとは言える。

 まず、相違点から言っておけば、当ブログにおけるブッダ達とは、必ずしもゴータマ・ブッダを指しておらず、老子やイエスやスフィー達ですら、ブッダ達、という概念に入ってくる。この本における「ブッダ」には、仏教徒達の伝統の中での、というニュアンスが多く含まれている。ゴータマ・ブッダ、その人ですらない。

 著者のマーク・エプスタインは、米国の精神分析家であり、医学博士でもある。そのクライエントとしているところは、当然のごとく欧米人であり、この本自体も、それら欧米向けに書かれたものである。もちろん、仏教や瞑想に対する造指も深く、的を外してはいないが、結局は、精神分析家としてこの本を書いているのであり、それ以上については書いていない。

 訳者は日本人で(あろう)あるが、曹洞宗とテーラワーダ仏教で出家したとのことで、のちに還俗したとの記述もある。いずれにせよ、禅とヴィパサナに長じた人物であろうし、その後、カナダ、イギリス、アメリカで瞑想指導にあたったということだから、国際的感覚も身につけておられよう。

 現在は高野山大学スピリチュアルケア学科准教授ということだから、現代日本における時機を得た職場に生息しておられる、ということになる。この大学のこの学科については、この数年、創立以来から関心を持っているが、なかなか内容については知ることができない。少なくとも、このような教員がおられるということで、多少は、なるほど、と納得することができる。

 私は、「仏教はセラピストとしてのあなたにどのような影響を与えましたか?」という質問を受けたとすれば、「影響されていない」と答えたくなることがよくあります。「セラピーをしているときはただセラピーをしているだけで、瞑想に興味を持っていることはそれとは関係ない」と答えたい自分がいます。 しかし、これは上滑りな答えです。私は、瞑想のおかげでよいセラピストでいることができます。治療の最も重要な局面で、患者の邪魔をしないでいるためにはどうしたらよいのか学んだのは、瞑想のおかげなのですから。p259

 邦訳の、どちらかというと日本人受けするように作りかえられている部分に比較すれば、もともとの原書は、もっと落ち着いて現状を踏まえており、決して浮足だったものではない。

 基底欠損に侵されやすい西洋人は、まず最初に、自分がどれほど感情的な痛みに同一化しているかを見つめなくては、仏教の無我について探求を開始することはできません。このプロセスは、セラピーあるいは瞑想だけを巻き込むことは稀です。双方からできるだけ手助けを必要とします。観察する自己を曇らせていた「暴力的な恨み」が解消されたとき、やり遂げるプロセスが実際に開始されます。p278

 西洋社会における「仏教」の発見は、禅、チベット密教、ヴィパサナ、の順に起こったと思われるが、それはあくまで、西洋社会における、という限定付きのできごとである。西洋社会のおける「東洋文化」のエキソチズムからの関心は、いましばらく続くとは思われるが、次第にそれは消滅していかなくてはならない、偽りの契機である。

 東洋社会、とりわけ日本社会のおけるサイコセラピーや心理療法もまた、舶来のなにか「新しい文明」の始まりのようなイメージを持たせられているが、決して、そのようなものであってはならない。カタカナで書くことによって、なにか「ブッダのサイコセラピー」が最新のものであるような勘違いをしてはならない。

 当ブログにおいては、東洋人のための、とか、西洋人のための、という視点からはすでに遠く離れてきている。あえて言うなら今は、「地球人」のためのスピリチュアリティが求められているのであり、それこそが、今後、世紀を超えて求められていかなくてはならない、重要な視点である。

 その「地球人」的視点から見れば、この本は、一歩近づいてはいるのだが、そこの至る道筋は書かれていない。あるいは、その視点すら考慮されていない、と言っても過言ではない。セラピーや「瞑想」などを強調するが故に、さらに、その帰結して存在してくるであろう、「エンラトメント」については、ほとんど触れられることはない。

 世にさまざまな職業があり、セラピスト、という職業も存在している。しかし、本来、瞑想やエンラトメントは、「職業」とは何の関係もない。まったく無関係と言ってもいい。しかしながら、瞑想やエンライトメントに関心を持ち、しかも、この世において職業を持とうすれば、比較的たやすくイメージしやすいのは「セラピスト」になる、という近道だ。

 近道ではあるが、真の意味においての「セラピスト」になることは容易なことではない。また、真の意味においてセラピストであったとしても、「瞑想」やエンライトメントに一切の関係をもたないこともありうる。

 このような二律背反的な二足わらじに関心のある向きには、この本は役に立つ可能性はあるが、真に瞑想やエンライトメントに自分の存在を向けようとした場合、この本は、避けて通れないほどの重要な一冊とはならない。

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