精神の運命ウィリアム・S・ハース OSHO「私が愛した本」<70>
<69>からつづく
「私が愛した本」 <70>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
「精神の運命」ウィリアム・S・ハース
ハースによる「精神(マインド)の運命」だ。この名前はどう発音するのかわからない--H-A-A-S--だ。私はハースと発音している。この本があまりよく知られていないのは、これがあまりにも深遠だという単純な理由による。このハースという男はドイツ人に違いないと思う。それにしても、この上もなく意味の深い本を書いたものだ。彼は詩人ではない。数学者のように書く。私に「フィロシィア」という言葉をもたらしたのは彼だ。
哲学(フィロソフィ)とは、「知恵を愛すること」を意味する。フィロは愛、そしてソフィアは知恵だ。だがこれは全体を見る東洋的方法、ダルシャナには適応できない。哲学はどぎつい。
「精神の運命」の中で、ハースはダルシャナを表す言葉として「哲学」ではなく、「フィロシィア」という言葉を使っている。「フィロ」はやはり愛の意味だが、「オスィア」は真理、実在、究極の実在を意味する。知識とか知恵を愛することではなく、真理を愛することだ。その真理が口に合うものであるかどうかは問題ではない。
これは東洋と西洋を近づけた本の一冊だ。ただし近づけただけだが。本にそれ以上のことはできない。出会いが起こるためには人間が必要だ。本ではない。そしてハースはそのような人間ではなかった。彼の本はすばらしいが、本人はごく普通の人だ。本当の出会いのためには、仏陀や、ボーディダルマ、イエスや、モハメッド、バール・シェムが必要だ。ひとことで言えば、瞑想が必要なのだ。
そして私は、このハースという人が瞑想したことがあるとは思わない。集中ならしたことはあるかも知れないが・・・・・。ドイツ人は集中についてなら大いに知っている・・・強制収容所とは、大したものだ! 私が開いてきたのは瞑想キャンプだ。そして彼らが開いていたのは集中キャンプだ!
集中はドイツ的だが、瞑想はそうではない。たしかに時たま、ドイツにさえ瞑想者が現れることがある。だがそれは法則ではなく、例外にすぎない。そして例外は常に法則を証明する。私はエックハルトを知っているし、またベーメを知っている・・・・・。Osho「私が愛した本」p122
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