グルジェフとクリシュナムルティ<2>
「グルジェフとクリシュナムルティ」 エソテリック心理学入門
ハリ-・ベンジャミン/大野純一 1998/03 コスモス・ライブラリ-/星雲社 単行本 260p
★★★☆☆
今回この本を再び手にとったのは、20世紀の巨大な精神的うねりの中での震源地とされる二人の神秘家、グルジェフとクリシュナムルティにいかような関係があったのか、ということに関心があったからである。
この本の英語タイトルは「Basic Self-Knowledge」 An Introduction to Esoteric Psycology Based on the Gurdjieff System of Esoteric Development, with some References to the Writigs of Krishnamurti とある。
いままでこの両巨頭の関連について深く考えたことがなかったが、ほぼ同時代に起きたムーブメントにどのような関係があっただろうか、と、野次馬根性を持ったからだった。本質的な意味における同質性が発生することは当然のこととしても、人的流れや、教義や思想的な影響関係はあったのだろうか、と、恥ずかしながら、出歯亀根性丸出しである。
しかるに、例えば、ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」における神智学に関する言及がひんぱんに現れるように、神智学(的ながれ)においては、いわゆるグルジェフ関係のシステムやワークが流れ込んでいるのだろうか、という興味本位丸出しのきっかけが本書を読んだ理由である。
結論から言えば、本書においては、それは明確にはみることはできなかった。著者ハリ-・ベンジャミンは、グルジェフの門弟でその膨大な注釈書「コメンタリー」を著したモーリス・ニコルを元に論を起こしている。Oshoはこのニコルの「コメンタリー」について高く評価しているが、当ブログとしては未確認である。
モーリス・ニコルの本は未邦訳であるばかりではなく、かなりの大冊である。しかも6巻以上に渡るシリーズものである。一般公立図書館には在庫はなく、一部の大学にはあるものの、決して広く読まれた本ではなさそうだ。ネット上でも求めることはできるようだが、かなりの高値を呼んでいる。同じニコルの著書なら、大学にあるので、そのものではないが、手にとることは可能だ。
ニコルはグルジェフの弟子だった。しかもウスペンスキーと違って、彼は決して裏切らなかった。彼はユダではなかった。グルジェフが最後の息を引き取るまで、そして息を引き取ってからも真の弟子だった。ニコルの「コメンタリー」は膨大だ。あれを読んだ者など誰もいないと思う。何千ページもある・・・・・しかしその面倒をあえて厭わないなら、大いに益するところがある。私の意見では、ニコルの「コメンタリー」は、この世の最上の本のひとつに数えられるべきものだと思う。Osho「私が愛した本」 p146
Oshoがこうまで言っているわけだから、読める環境にあるなら幸せなことではあるが、まぁ、そのチャンスはほとんど巡ってこないと思われる。しかし、もしそれならば、ニコルの影響下において書かれたとされるこのハリ-・ベンジャミンの「入門書」によって、その概略でもつかめるものと思う。
とも思ったが、この本もそうたやすいものではない。なにがどうなっているのか、明確ではないが、少なくとも、現在の私は、「面白く」読めない。「心理学」と銘打っているところに、それが「エソテリック」であろうとなかろうと、最近の当ブログは、しばし「心理学」からは遠ざかっていたい気分が漂っているのである。
エソテリック心理学、と言われたとたんに、青い赤、黒い白、山のような谷、海のような砂漠、と言われているようで、拒絶反応がでてくる。ちょっと偏見ではあるが、しかし、二つの言葉には懸けるべき橋がすでに失われているのではないだろうか、という思いさえ、最近はある。
本章でわれわれは、グルジェフの秘教的発達システムにおいて精神と合理的思考のプロセスがどのようにみなされているかを読者に示すべく試みた。クリシュナムルティの研究者は、われわれが言ってきたことが、--たとえ、多分、同じ言葉でではないとしても、--この最も根本的なことがらについてのクリシュナムルティの言い分といかに非常に緊密に結びついているか、容易にわかるであろう。
たとえ使われる言葉と観念は同一ではなくとも、根底にある原理は両者の教えにおいて同じだとわれわれは感じる。これは必然的にそうでなければならない。なぜなら、両教師とも人間の精神を、その中で人間が---いまそうであるところの彼自身へのへたな模倣(カリカチュア)ではなく---彼自身になりはじめることができる経路(チャンネル)へと向けるべく努めているからである。このきわめて重要な目的を達するには、精神または知性の限界、および---現代世界であまりにもはやりすぎているその濫用とは別個のものとしての---その正当な用途をはっきり理解することが絶対に必要である。ハリ-・ベンジャミン p172
なにをもってして、G側からのK側への影響とするのか、は、当ブログのいい加減な推論では曖昧すぎるが、しかし、本質に立ち返って、より中核の部分での類似性を見る、ましてや、G→K、という意味では、この本一冊がそうとう面白く読めるのではないだろか、と思い始めた。そもそも、この本自体が、そのような位置にある本なのではないか。この本、いつか、もっとゆっくり読める機会が来るだろう。
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