私が愛した本<72>
<71>からつづく
「私が愛した本」 <72>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
意図しないまま、知らないうちに始まってしまった、新たなる1024冊へ向けてのVol.3だが、今後は再読モードが主になるので、新たなる読書としての冊数をカウントしていくことはあまり意味がなくなってくるかもしれない。
一カ月ほどIn Silenceモードの中で、具体的には、日常生活でいろいろ溜まってしまった諸事情の仕事をひとつひとつこなしていたわけだが、その中でも、まずはこの本を再読しなくては、と思ったのが、やっぱりこのOsho「私が愛した本」であった。
出版当初にまずは目を通し、その後、当ブログが始まってからまた目を通し、その後は、この本の中に登場してくる一冊一冊を、図書館ネットワークの中で探し出しては、ひとつひとつブログを書いてきた。もちろん、ここには書いていないものもあるし、本そのものも見つからないことも多数あった。
だが、バラバラにあちこちリンクを張りながら、なんとか、全168冊をブログの中にアップしてみて、なんとか体裁を保ったものの、もう一度、この本を最初の頁から、最後の頁まで、一冊の本として読みたいと思っていた。
そして、ようやくもういちど読みなおしてみて思うこと。最初、この本に書いてある100のうち、自分が分かっているのは、10くらいしかないな、という実感だった。あとの90くらいは、よくわからなかった。いつかわかるようになるだろう、という気楽な気分だけは残ったが、それでも、何時? という目途はたっていなかった。
今、こうして、この本が出版されれて20年も経過してから、あらためて、時間をかけて、この本に紹介されている本を読みなおしてみながら、また一冊の本としてこの本を読みなおしてみた。そして、思うこと。それは、結局、自分の分かっていることは、やっぱり10くらいしかないな、ということ。
いろいろ枝葉について調べたから、もうすこし理解が進んでいると、自分では思っていた。しかし、それは、体験がともなっていない、単に文字面のものでしかない。いや、むしろ、分かっていることが10としたら、分からないことが増えていて、この本に書かれていることが1000に増えているのに、そのうちの、やっぱり10しか分かっていない、という現実に直面した。
以前は、100のうち10は分かっていたつもりだったが、現在は1000のうちの10しか分かっていない、という、なんとも逆説的な現象が起きている。ともすると、絶望の中にさえ落としこまれるような、どん底な気分でもある。
もともと、長編小説やインドの文献化されていないブッダたちのこと、あるいは、西洋哲学のあれやこれやは、なかなか読み進めるものではない。かんたんな読書ではないとは思う。だが、いままで読んで、分かっていたつもりになっていた本についても、なんだか、この「私が愛した本」を再読すると、本当にあの理解で良かったのか、と、根元がぐらついてくる。
しかし、読んでよかった。再読してよかった。というのも、一本の道ができたような気がするからだ。私というポイントがあり、Oshoというポイントがある。その距離は限りなく離れているが、しかし、そこに細く、とぎれとぎれではあるが、たしかに、一本の道が、ひとつの橋が架かったような、安堵感がある。
この細く、限りなく長い一本の糸を、静かに、静かに手繰りよせていくことができるだろうか。すこしづつ、太い確かなロープにより合せ、すこしづつぐいぐい引っ張りよせることができるだろうか。いつかは、二つのポイントを、重ね合わせて、ひとつとすることができるだろうか。
あるいは、この一本の茎から、あちこちと枝葉がでて、次から次へと面化していくのではないか、という予感もある。あれやこれやと、横道にそれて冒険してみるのも面白い。根がでたり、分株したりすると、結構な広さになるに違いない。
どうもそうなると、いずれは、その領域は100や1000という単位ではなく、10000や100000という広さや質量になるかもしれない。そして、依然として、自分の分かっているのは、結局10くらいしかないのだ、という感慨に戻ることもありうるだろう。まぁ、それも良からん。いやいや、10どころか、1つも分からん、なんも分かっていなかった、という結論もありうるのだ。まぁ、それもいいじゃないか。
今日、自分が、Oshoの本の中から3冊選びなさいと言われたら、まずこの「私が愛した本」を選ぶだろう。それは、プネー1の総括の時期でもあったし、その広さから地球大の展開を感じることができる。それにまだまだここから枝葉が無限に伸びて行きそうな気がするからだ。だけど、それは分裂はしていない。その中心にOshoがあり、そしてNothingnessがある。
他の二冊としては、「禅宣言」と「マイトレーヤ」を選ぶのではないだろうか。「禅宣言」はOsho最後のZenシリーズの締めくくりでもあり、Osho最後の本でもある。この一冊から、OshoのZenへと展開し、また瞑想へと繋がっていく。「マイトレーヤ」は日本国内で編集されたものであるが、チベット密教へのつながりを多く感じさせてくれる一冊だ。インスピレーションのひとつの源になってくれる。
他には、Oshoの代表作と目される魅力的な本もたくさんあるのだが、なにはともあれ、今日の三冊は、ここで決まりのようだ。すでにこれらの本は再読、再々読の段階だが、そのなかでも、あえて感謝の意味や、新たなる出発の意味も込めて、この「私が愛した本」は、新たなる「One Earth One Humanity」カテゴリとしては、実質的な、栄えある第一冊目ということになる。
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