マイトレーヤ <8>
「マイトレーヤ」 <8> The buddha lord maitreya.
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 1988/3 瞑想社 地方・小出版流通センター 単行本 p221
一旦小休止したあと、そろりと再スタートしている当ブログにおいて、「禅宣言」と「私が愛した本」とともに、この「マイトレーヤ」をスタート地点で再読しておこうと思ったのには、それなりの理由がある。
チベットに連なる一連の読書遍歴は、結局、現在の私の場合、「反密教学」と「サンヴァラ系密教の諸相」に行き着いているのであり、ここにおける瞑想いかんによって、前にも進めなければ、後にも引けないというところまで来ている。
当ブログを始めた当初は、この密教系列の「チベット」カテゴリと、文化人類学的くくりの「チェロキー」カテゴリは、同じような形で進行するものと思われた。しかし、あれから4年ほど経過していみると、「チェロキー」カテゴリは一向に進みがない。
ここで終了するのか、もし再開するにしても、たぶん「ドン・ファンの教え」あたりを突破していかないことには、このままフェードアウトということになるだろう。それもよし、だけど、予感としてはフェードアウトしようがないだろう。つまり、一点突破が必要なのだ。
他にも、ここに来て、突破していかなくてはならない岩盤はいくつか残されている。あれやこれやの中で、ひとつの厚い岩盤は、神智学という形で残されている。もともと好きな分野ではないのだが、どうしてもここに舞い戻ってくる。
仕方がないので、どこか好きなところを見つけて、そこにダイナマイトを仕掛けて、すこしづつ堅い岩盤を崩していかなくてはならない。そのひとつの仕掛けどころが、見つかった。それは、クリシュナムルティとともに、未来のマイトレーヤとして育てられた5人の子ども達の他に、もう二人、その候補があった、という情報である。
6番目は、多分、シュタイナー、ということになる。そして、7番目は、どうやらアジア人。しかも、日本人であったのではないか、という可能性である。これだけの話題が出来上がっていれば、例えば雑誌「ムー」などであるならば、あれやこれやのゴシップを連ねていけば、立派なカラー刷りの特集記事ができそうだ。
いや、もうあるのかも知れない。すくなくともこの話題は当ブログの得意分野ではないので、避けてきただけであって、本当は、しかとした鉱脈がすでに発見されている可能性もある。遅きに失しているかもしれない。だが、いまこそその時、と、ばかり、当ブログは、すこしづつ、重い腰を上げつつある。
この本、当時の緊急的な雰囲気の中で編集された特別な一冊なので、特殊な香りがするが、取扱いに注意して読むと、極めて稀な、独特な味わいのある本となっている。私は大好きな一冊なのであるが、オーソドックスなOsho本からは、すこし脇にそれている。あるいは、一歩踏み込んでいる。
ひさしぶりに、あのマントラを見つけた。
オーム・マニ・パドメー・フーム om mani padome hum
「オーン・マニ・パドメー・フーン」とも表記。「オーム(帰依する)、摩尼宝珠よ、蓮華よ、吽」と訳され、六字の明呪として死後の浄土を願う意で、日本の「南無阿弥陀仏」と同じく盛んに唱えられる。チュコール(別名マニコル)の小楽器の紐を一唱ごとに引く。また、石に刻んで回転させながら唱えたり、経典・壁などにも書く。p193
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