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2010/05/24

At the Feet of the Master

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「At the Feet of the Master」 compilation book -- Darshan Diaries by Osho individual talks with seekers 1975-81 Pune, India
Author Osho Edition illustrated Publisher Rebel Pub. House, 1992 404p
Vol.3 No.0021

 当ブログ<2.0>の777番目の書き込みにして、1024冊綴りVol.2における21冊目はこの本。残念ながら「one earth one humanity」カテゴリとしては、20冊目ではあるが、諸神の精霊が凝り集まってきた感がある。

The earth is one, and sannyas is a declaration of the oneness of humanity.  Osho p9

 クリシュナムルティが、リードビーターやアニー・ベサントの指導のもと、マスター・クートフーミ(KH)との遭遇を「At the Feet of the Master」として著した。邦訳は「大師のみ足のもとに」 として出版されているが、実は、大正14(1925)年、当時の唯一の星の教団団員・今武平によって「阿羅漢道」として文党社から出版されていた。クリシュナムルティの教団解散宣言の4年前のことである。

 父は真実を籠めて弥勒菩薩の再来を確信した。その点では今日の凡百の僧侶よりも強い信念を抱いて、弥勒再臨を用意していた。そのためには単身、あるいは一家、一族を挙げて弥勒出生の地へ巡礼したいと言っていた有様は、あたかも耶蘇降誕に際して遥々と当方から旅をして来た博士達と等しい情熱と信仰を持続しつづけていたのである。今東光「クリシュナムルティの世界」p337

 昭和11(1936)年に69歳で亡くなった武平は、この本を訳出した時は57歳。東光は29歳であった。この親子の56歳と7カ月と、29歳という、年廻りに何かの因縁を感じる。東光はこの父親の本を出版している。

 晩年の父は、道を求めてさえ容易に答える人ではなくなっていた。広義の意味ではクリシナ・ムルテが神智学協会を解消したという重要な意義と使命とからであったに相違ない。消極的な意味において父はわが子は勿論、何人も弟子を所有しなかったので、神智学を伝えようとしなかったのであろう。今東光「クリシュナムルティの世界」p334

 クリシュナムルティが「星の教団」の解散を決意する過程は、この「クリシュナムルティの世界」を読めば、決して突然にやってきたのでなかったことがわかる。それは、そうならざるを得なかったのだ。しかし、マスターとして、ロード・マイトレーヤーの臨在を待ち望んでいた人々の、驚嘆やら失望やらが、この今武平の姿を思う時、ありありと見えてくる。彼は誠実な人であったのだろう。

 父は私が仏門に入ろうとした時に、気に入らなかったことは事実である。もし私が聖道を求めるならば、しかしてそれは父にとっては喜ばしいことだったが、そのままの姿で道を求め毫も差し支えないと思惟した。そしてそれは本当だった。しかしながら私は、自分の半生の転換期に立って徹底的な変革を望んだ。そうして一つの宗派に属した。今東光「クリシュナムルティの世界」p334

 今東光が出家したのは昭和5(1930)年、クリシュナムルティの解散宣言の翌年、32歳の時のこととなる。この前後に彼は出口王仁三郎と出会っていたということが分かっているが、それは別途、他の資料を調査中である。

 私の父も霊智学会の会員でありながら、またクリシュナ・ムルティのスターの会員となり、毎月送ってくる薄いパンフレットをこれまた熟読していた。今日出海「クリシュナムルティの世界」p340

 どこにでもいる若き探求者たちの姿と、だぶついていくる。

 この「峠」の演奏会後7,8年して父は死んで、霊智学もクリシュナムルティも消えてしまった。父の蔵書も私の家が戦火を受け、ことごとく消亡したし、あの美しい曲の作曲家諸井三郎も死んで、今は夢のような思い出しか残っていない。今日出海「クリシュナムルティの世界」p340

 漠とした寂しい気分が湧いてくる。

 私の亡父は27,8歳から、どういう因縁で霊智学を知り、遂に日本唯一の霊智学者になったか知らないが、爾来、生を終えるまで40年間、一日として霊智学の書を手放さず、私の中学時代に早くも会社を辞め、ただ書斎に籠って勉学に務めた。今日出海「クリシュナムルティの世界」p339

 なんとも、今武平という人に感情移入してしまう。

 印度における神智学協会は、聖者クリシナ・ムルテを迎えてとみに発展した。しかしながらクリシナ・ムルテはその発展の頂上において解散を宣したのである。何故であるか。その真意を把握していた父は、莞爾として日本唯一のロッジの額を降ろしてしまった。今にして私には、それが少しづつ解るような気がする。今東光「クリシュナムルティの世界」p335

 Oshoがサニヤスというシステムを使ったこと、そしてそれがどのように機能し、現在どのように変化しているか、ということは、別途検証されなければならないだろう。しかし、クリシュナムルティが、マスターと弟子、というスタイルを否定したことを継いで、Oshoがネオ・サニヤスを稼働させた。そのフィールドの中で生きてきた自分を思う時、私は感無量な気分になる。

 この本は、1975~80年に渡って続いた、Oshoと弟子たちによるダルシャン日記からの再編集である。67冊の中から、特に「diciplefood」について語られている部分がまとめられている。70年代後半の熱いプネ1の、「ネオ・サニヤス」にまつわる、マスターからのビジョンである。

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