「Osho、ニーチェを語る」 <1>
Osho 小森 健太朗・訳編 1990/03 出版:全国エルピー・プル狂連 印刷:同人誌印刷 簡易冊子 p60
Vol.3 No.0019★★★★★
本棚をゴソゴソやっていたら、ポトンと落ちてきた一冊。そうそう、先日、ミニコミ類を整理していて、この冊子がでてきたので、本棚の一番上にあげておいたのだった。今回ニーチェがようやく主テーマになりそうなので、そろそろこの冊子を読む段階がきたのだろう。
と、めくってみたところ、この冊子B5版の薄いパンフレットだが、中味が濃い。ちょっとめくるとドキっとして一気に惹きつけられてしまうが、そのまま昇天してしまいそうな勢いだ。なんせ、未邦訳の英語版のOsho本のなかから、直にニーチェに触れている部分が集中的に翻訳されて、一冊になったものである。
その本たちもなかなか重い。
「Theologia Mystica」 p183~186 1980/8/18
「Zen: The Special Transmisson」 p252~254 1980/07/08
「Books I Have Loved」 p101~103
「Rajneesh Bible vol.1」 p701~703 1984/11/27
「Rajneesh Bible vol.2」 p715~716 1984/12/25
「Rajneesh Bible vol.3」 p506~511 1985/01/14
「Socrates Poisoned again After 25 Centuries」 p95 1986/02/22
「The Rajneesh Upanishad」 p44~52 1986/08/18
「The Messiah vol.2」p66~69 1987/01/21
「The Messiah vol.2」p308~309 1987/02/05
「Zarathustra : A God That Can Dance」 p4~10
「Zarathustra : A God That Can Dance」 p56~62
「Golden Future」 p46~51 1987/04/24
「Golden Future」 p52~53 1987/04/24
「Golden Future」 p64~67 1987/04/25
「Golden Future」 p82~86 1987/04/26
「Golden Future」 p87~88 1987/04/26
「Golden Future」 p238 1987/05/24
「Communism & Zen Fire, Zen Wind」 p207~212 1989/02/03
「God is Dead」 chapter4 1989/02/09
これら一つ一つの講話録の中かから、Oshoがニーチェについて語っている部分を主に抜き書きしたものだから、「Osho、ニーチェを語る」というテーマについて知りたい人にとっては、これほど便利なものはない。これらの文献は、邦訳はすすんでいなものばかりだから、実に貴重な一冊と言える。
しかし、Oshoにおいては、その講話録というものは、必ずしも知識を増やしたり、娯楽で読まれたりするものではない。これらを一気に読み進めるというのは、かなりキツイものがある。読み始めると、実にタジタジとなる。
ニーチェはマハヴィーラやブッダになれたであろうが、彼にはいかなる瞑想の次元も提供されていなかった。人が一旦神を拒むと、その人のありようの全責任が山となってその人の頭上にのしかかってくる。そしてその人はその責任に押しつぶされてしまう。これがニーチェに起こったことだ。ニーチェは自分の責任に押しつぶされてしまった。彼は自分の自由を制御できなかった。「Theologia Mystica」 p183~186 1980/8/18 本書p6
彼は瓦解した。彼は神経的に崩壊した。彼は瞑想者のみ許されているところに到達しようと試みた。そして当然のことながら、彼はその高みから落ちざるをえなかった。そして彼は複雑骨折に苦しんだ。彼が天才だったのは絶対的に確かだ。しかし彼の天才が彼を狂気に導いたこと、これもまた確かだ。
東洋ではこうしたことは決して起こらなかった。調べてみればいい・・・・・。西洋ではこうしたことは常に起こっていた。偉大な天才がいるといつでも、遅かれ速かれ精神的崩壊があった。あたかも把握しきれないものをあまりにも多くみたかのように。彼は十分な翼を持っていないのに、長い間上空を飛行した。疲労して、ぼろぼろになって、彼は落下しした。「The Rajneesh Upanishad」 p44~52 1986/08/18 本書p18
ニーチェは直接人々に語って、そのせいで苦難を受けた。ニーチェは権力に飢えた人々のせいで、犠牲にされた最も偉大な存在の一人だ。しかしそういった人々はカリール・ジブラーンのことは気にしなかった。彼の本は詩として読まれ、美しいエンターテイメントとして読まれたが、それ以上の読まれかたはされなかった。「The Messiah vol.2」p66~69 1987/01/21 本書p23
カリール・ジブラーンは、フリードリッヒ・ニーチェの著作「ツァラトゥストラかく語りき」に強いインパクトを受けて、この「預言者」という本を書いた。ジブラーンは「ツァラトゥストラかく語りき」に非常に感動したので、自分自身も似た系列の本を著そうとした。ニーチェはツァラトゥストラについてはその名以外何も知らなかったので、ツァラトゥストラには彼にとっては歴史上の実在する人物ではなかった。しかしニーチェは自分の哲学を語るのにふさわしい代弁者を選んだ。
同じようにカリール・ジブランはアルムスタファという虚構の人物を選んで、アルムスタファを通して語った。アルムスタファは、単なる仮面だ。ジブラーンはキリスト教に反することを言うために、仮面を必要とした。しかしジブラーンの本は単なるフィクションなので、誰も腹を立てなかった。教皇でさえ、ジブラーンの本をブラック・リストに載せて、カトリックの人は読んではならないと言わなかった。私の本はカトリックのブラック・リストに載っている。カトリックの人は読んではならない。一読するだけでも大きな罪を犯すことになる。「The Messiah vol.2」p308~309 1987/02/05 本書p24
世界には不幸な出来事があるが、私はフリードリッヒ・ニーチェのことを最も残念に思う。私には彼が、どれほど偉大な潜在的可能性を持っていたかがわかるからだ。しかし悪い環境にいて、前例もなく、独力で研究する術もなく、独りきりで・・・・独力で奮闘するのが、一個人には荷が重過ぎるのは確かだ。いかなる一個人でもだ。「Golden Future」 p46~51 1987/04/24 本書36
彼(ラビンドラナート・タゴール)は最高のカテゴリーに属する詩人で、また神秘家でもあった。このような組み合わせは、以前に一度か二度しか起こっていない。----カリール・ジブラーンとフリードリッヒ・ニーチェとラビンドラナート・タゴールだけだ。このカテゴリーに入るのは、この三人で全部だ。人類の長い歴史の中でこれは、極めて特別だ。偉大な詩人はいろいろいたし、偉大な神秘家もいろいろいた。ちょっとした神秘主義を持つ偉大な詩人もいたし、詩で自らを表現した偉大な神秘家もいた---しかし、その詩はあまり偉大ではない。ラビンドラナートは奇妙な状況にいた。「Golden Future」 p238 1987/05/24 本書p52
私は人間を全体の角度から見ている。肉体の角度から、精神の角度から、魂の角度から。私は人間を全体性として見ている。多くの反円が私の中で完成されている。ブッダは霊的側面からのみ人間を見た。マルクスは物資的側面からのみ人間を見た。ジュークムント・フロイトは心理学的側面からのみ人間を見た。私のアプローチは、全面的で、全方向的で、トータルだ。私はこれらの人々を可能な限り深く調べた。そして私には彼らがどこで立ち止まり、どこに立っているかがわかる。ニーチェは知的分析に止まった。ジームント・フロイトは精神分析に止まった。マルクスは社会の経済的分析に止まった。「Communism & Zen Fire, Zen Wind」 p207~212 1989/02/03 本書p55
このわずか60ページの、1990年における未来の作家の習作ともいうべき翻訳ノートには、まるで劇薬を濃縮して閉じ込めたような効き目がある。ちょっと効きすぎるくらいだ。これらの本を一冊一冊冗漫に読み進めていくのも、必ずしも効果的ではない。当ブログでは近未来的には、これらの本一冊一冊に触れていかなくてはならないのだが、すくなくとも、これらの本たちが、この小さなガイドによって、その位置づけが次第に明確になり、共鳴を始めるのは素晴らしいことだ。
<2>につづく
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