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2010/05/20

「創られながら創ること」 身体のドラマトゥルギー 真木悠介 鳥山敏子<1>

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「創られながら創ること」 身体のドラマトゥルギー <1>
真木 悠介 (著), 鳥山 敏子 (著) 1993/07 太郎次郎社 単行本 176p
Vol.3 No.0017★★★☆☆

 どこかで、真木悠介(見田宗介)やドン・ファンや、あるいは、ネイティブ・アメリカン関連の読み込みを再開すべく、いろいろ糸口を探っていたら、この本があることがわかった。相手は、鳥山敏子。なるほど、いつもM氏の話題にでてくる女性だ。いままでいまいち関心がわかなかったこの人々についてであるが、いきなり小見出しが挑発的だったので、さっそく目を通してみることに。

ドン・ファン・マテオスとラジニーシ 「気流の鳴る音」と「存在の詩」

鳥山●あのあと、私はインドに行ったの。78年。バグワンにもそのときあったの。プーナのね。
真木●ぼくは80年にはじめてバグワンのコミューンには行ったけど、そのまえに73~74年のときに、知らないでプーナには呼ばれていたんだ。
鳥山●ああ、ほんと。
真木●そのとき、ぼくはバグワンの名前も知らなかったの。ところがね、ボンベイに着いて、エローラに行こうと思っていたら・・・・・。
鳥山●エローラのほうへね。
真木●うん。ところがね、そのときインド国内旅行がスト中で、飛んでなかったの。汽車で行こうと思ったら汽車もストライキ中なんだ。一カ月くらいまえから。動いてないわけ。どうしても行きたかったから、車を乗り継いだりして行ったんだよね。一日中かかって行って、翌々日帰ってきたわけなんだけど。
鳥山●ボンベイに?
真木●ボンベイに。エローラの話はまあ、べつとして。帰りにね、オーランガバドから安タクシーみたいなのがあって、やっと帰れると思ったらインドの長い道を無理に走ってるもんだから、車が、要するにうごかなくなっちゃってね。大高原のまんなかで夜中になったんだ。30分に1台くらい通るトラックの、3台目にやっと乗せてもらったら、ボンベイまではいかない。途中のプーナという町に行くんだ。
鳥山●プーナ。
真木●僕は日本にいてプーナなんて町は名前も知らなかった。ぜんぜん予定もないのにプーナにつかまって、強烈な印象をもってるんだ。それでもバグワンがそこにいたことはしらなかった。
鳥山●じゃ、アシュラムには寄らなかったのね。
真木●あることも知らなかったから。帰ってきてから、バグワンはどうして知ったかっていうと、74年からメキシコに行って、「気流の鳴る音」を書いて、まだ本にするまえに、76年の夏だったかな、西荻窪のホビット村のフリースクールで、その話を一回だけしたんです。ドン・ファン・マテオスの話しを、「世界を止める」という題で。話のあとで、聞きに来てた人のなかに25歳くらいの目の澄んだ青年がいてね。聞いたあとで、これ、さしあげます・・・・・プラサードっていうでしょう、あそこの本屋。「贈りもの」という意味の。そのプラサードです、と。彼が、ガリ版刷りで自分で出してる個人雑誌に連載している翻訳をくれたわけ。その人がプラブッダで、その連載が「存在の詩」だったんだ。
鳥山●ああ、そうだったの。
真木●まだあれが、「存在の詩」が本に・・・・。
鳥山●まだ本になってないとき。
真木●そう、本になるまえに。ガリ版刷りの個人雑誌にね、少しずつ訳して出していたんですよ。
鳥山●あら、そうだったの。
真木●あの本が日本で最初の本だからね。バグワンのもので訳された。それで帰って読んでみたらすごいわけだ。
鳥山●あのころ、いっきょにいろんなものがでてきたんですよね。
真木●「ことばが劈(ひら)かれるとき」の解説にも書いたけど、70年代のまんなかというのは、ほんとにすごい時代だった。いまあるいろんなものが、一斉に呼応しながら出てきて。
鳥山●そうそうそう。
p17

 この本をめくったのは、この部分に興味があったからなので、ちょっと長いがそのまま転記してみた。93年にでた本として、70年代のことや、90年代的雰囲気がわかるので、しかも、対談中の二人のプロフィールが分かってくるので重要なところだとおもうのだが、どうも、私はこの短い対談のなかの言葉尻が気になって仕方ない。

 まず、真木が偶発的にプーナを最初に訪れたという73~74年に、Oshoはプーナにいなかった可能性がある。Oshoがプーナに移動したのは、74年の3月であり、ましてや一部の熱狂的なインド人たちに囲まれていて、西洋からやってきた人々はごくわずかだった。

 ましてや今はプーナと言えばある色合いで知られているが、なんせ知られているだけでも一般の人々が400万人以上が住んでいる大都市である。大学も軍隊も商業施設も一般会社も多くある。ヒッチハイクして偶然たどりついたプーナで当時のOshoに出会ったとすれば、それはほんとに稀なことであっただろう。だが、残念ながら、73年では、Oshoはまだボンベイにいたと思われる。

 偶然とまでは言わないが、77年にアシュラムを訪れた立川武蔵や80年の西端国輝、あるいは百歩譲って81年前後の幸野谷昌人、後年の宮国靖晟などの文章も残っているが、いずれも、当時のプーナの真の姿を記録しているとは言い難い。の過去の雑文のほうがまだ当時のいきさつを表現しているように思う。

 二つ目。プラブッダが出していた「存在の詩」は決してガリ版印刷ではない。発行された分はすべて手元にあるから間違いないが、これはオフセット印刷である。手書き文字ではあるが、むしろ活版を組んだり、和文タイプで打ったものよりも、はるかに当時のプラブッダのセンスがでていたと思う。もちろん、ガリ版よりはるかに金がかかっている。

 そしてこれは「個人雑誌」ではない。ちゃんとした「アッシーシ・ラジニーシ瞑想センター」の「ニューズレター」である。東大の先生だから、おっしゃることがすべて正しいとは限らない。むしろ、なんだか浮世離れした話し方だな、と思う。ホビット村やプラサードについても、いろいろ想いはあるが、ここでの多言は慎しんでおこう。

 さて、このページにおける「ドン・ファン・マテオスとラジニーシ」や「気流の鳴る音」と「存在の詩」などというサブタイトルだが、なんだか誤解を招くような表現に思える。この時点において、この二つをつないでいるのは、真木本人だけなのであり、なにかの関連付けを連想するような書き方はまずいのではないか。

 この本がでた93年当時の日本の「精神世界」は、わりとこの辺がユルユルで、いまいち精度が高くなかった。これらの風土が、例の95年的土壌へと繋がっていったのではないか、と、危惧する。これらの精神土壌のユルさを、村上春樹あたりは、「1Q84」の新たなるbook<4>あたりで鋭意、批判的にえぐり出してもらいたいものだと、個人的には期待している。

鳥山●ちょうどそのころでた真木さんの「気流の鳴る音」というのは、私にとっては、「ああ、こういうことだったんだ」って、レッスンのなかで起きたことを一つ一つことばにしていくのを助けてくれるものだったの。カスタネダの描いたシリーズのなかのドン・ファンのことばや、バグワンの「存在の詩」もね。p137

 鳥山という人のセンスもいまいちよくわからない。ここでお二人とも、カスタネダとOshoを同列にしてしまっている。まぁ、この対談集をこのように拾い読みしてしまうのは、本書の正しい読まれ方ではないだろうが、次の機会にこの本を開くときのために、これらの率直な感想をメモしておくのも、必ずしも間違いではない。

<2>につづく

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