永遠の哲学 究極のリアリティ
「永遠の哲学」 究極のリアリティ
オルダス・ハクスレー/著 中村保男/訳 1988/03 平河出版社 単行本 p518
Vol.3 No.0013★★☆☆☆
神智学を広義としてとらえた場合、いわゆる「永遠の哲学」とはなにか縁があるのだろうか。そう言えば、吉福伸逸が変なことを言っていたことを思い出した。
ラジニーシの考え方は、いわゆる「永遠の哲学」と呼ばれる伝統の考え方となんらかわらない。永遠の哲学は英語ではperennial philosophy といって、昔は「久遠の哲学」と訳されていた。最初にこの言葉を使ったのはライプニッツで、近年ではこれと同名の「永遠の哲学」という本を出したオルダス・ハクスレーがいます。宗教の超越的一体性を説くこの考え方を基盤に、グルイズムという伝統的な形態を背景にして、セラピーという新しい修行的要素を加えたのがラジニーシです。吉福伸逸 「トランスパーソナル・セラピー入門」56p
この一文でなにごとかが的確に言い表されているとはとても思えないが、少なくとも、吉福の「偏見」は即座に見て取れる。まぁ、彼はこういう見方をしていたのだ。この吉福の本が1989年にでていて、こちらのハクスレーの「永遠の哲学」が同じ平河出版から1988年にでている。この連動の愚かしさが、今になっても際立っていると、私には見える。この出版社のこの「mind books」シリーズは、それなりに価値のありそうな本を出版しているのだが、どこかひとつピントがはずれてしまっている。
「永遠の哲学」という言葉はライプニッツの造語(phirosophia perennis)から来ているが、「永遠の哲学」ということ自体は、物と命と心の世界の実体を成す神的な「実在(リアリティ)」を認識する形而上学にせよ、神的な「実在(リアリティ)」に似ているか、ひいてはそれと同一の何かを人間の魂の中に見出す心理学にせよ、あらゆる存在に内在すると共にそれを超越している「根拠」を知ることが人間の最終目的であるとする倫理学にせよ、いずれも記憶を超えた遠い昔からあった普遍的なものなのだ。
「永遠の哲学」の萌芽は世界各地の原始民族の伝承の中に見られ、さらに完全に発達した形での「永遠の哲学」は高次元の宗教すべての内に確固として地位を占めている。ライプニッツ以前と以後のあらゆる神学に共通する最大公約数ともいうべきこの「永遠の哲学」が初めて文字として書かれたのは今から2500年前のことで、それ以来、この究めつくすことのできないテーマは、アジアならびにヨーロッパのすべての宗教的な伝統の観点から、すべての主要言語でくり返しいくたびも取り扱われてきた。p6「はじめに」
この本は、「永遠の哲学」というタイトルのもとにオルダス・ハクスレーの随筆がまとめられているのであり、いわゆる系統立った完結した何かが紹介されているわけではない。ハクスレーが見た真理の断片を、歴史的、文化的、あるいは宗教的な背景のなかで、語っているということだろう。
Oshoには1978年12月にプネ1で、ピタゴラスの黄金詩について語った「Philosophia Perennis」があり、それは「永久の哲学」として2004年に邦訳されている。
| 固定リンク
「42)One Earth One Humanity」カテゴリの記事
- Books I Have Loved<78>(2010.06.20)
- ミラレパの十万歌<3>(2010.06.19)
- バガヴァッド・ギーター<8>(2010.06.18)
- ミルダッドの書―灯台にして港<3>(2010.06.18)
- 『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する<5>(2010.06.17)
コメント