毒舌 仏教入門 苦楽は一つなり
「毒舌 仏教入門」苦楽は一つなり
今 東光 (著) (1990/08) 祥伝社 単行本 239p
Vol.3 No.0010★★★★☆
クリシュナムルティが未来のマイトレーヤとして教育を受ける段階で、他にも候補者があった。全部で7人のうち、最終的にはクリシュナムルティが選ばれたのだが、7人目は、東洋人、しかも日本人だったのではないか、という情報がある。
どこからその話がでたのかさえ、まだよくつかんでいないのだが、もし、その東洋人(日本人)がいたとしたら、当然、当時の神智学に近い立場にあった人々に縁のある子どもたちが狙われていただろう、と考えた。
神智学については、あまり食指は動かないし、当ブログの個人的な嗜好性としては、かなり的は外れているのだが、どうしても、この神智学とやらは、避けては通れない。一度は一回、どっぷり浸かって調べてみる必要がある、と以前から感じていた。
Osho「私が愛した本」から、Osho「禅宣言」までのラインを引いてみると、そこかしこに、「神智学」にまつわるエピソードがばらまかれている。つまり、Oshoは神智学をかなり重要視していると言える。
そこで、ほとんどなにも準備がないまま、この地点から当ブログもおっとり刀で、神智学の影を追いかけてみようかな、と思い始まった。それが一生に一度の追及になるのか、その以前の準備になるのか、あるいは、永遠に果たせないことを確認するための作業になるのか、分からない。
手がかりは、ほんのすこし。今東光「最後の極道辻説法」、クリシュナムルティ「生と覚醒のコメンタリー(2)」あたり。つまり、日本人としては、今東光の父親であり、日本郵船の船長で、日本人で唯一の「星の教団」の会員だった、今武平という人物を追っかけてみること。
後で弟が話してくれたけれども、亭主がものすごい剣幕でうちへ乗り込んで来たそうで、そのころはもう船から降りて悠々自適、セオソフィー(神智学)というのを研究していた父親が応対した。相手の男が「お宅の息子は何たる男だ。悪いやつだと思わんのか!」とか言っておやじを脅かしたらしいが、おやじは、「おっしゃるとおり、あいつは悪い子です。しかし、そんな悪い男に、あなたの愛している奥さんを盗まれるとは何事ですか」って追い返しちゃたってんですけど、これも凄いおやじだねぇ。p84
これで少なくとも、まず「1920年当時には、世界各地で3万人以上の団員がいた。ちなみに、わが国では、今日出海さんのお父さんが、唯一の星の教団の団員だった。」という「生と覚醒のコメンタリー(2)」p380の記述の信ぴょう性は高くなる。
当の今東光はと言えば、巻末の「略年譜」を見ると、
大正3年(1914)16歳 関西学院中学部3年の一学期に諭旨退学を受ける。学部の副院長の娘と恋愛事件を起こしたというのがその理由だった。兵庫県立豊岡中学校に転校、二学期に恋愛事件をきっかけに、教師を殴って退校処分を受けた。上京し、東京・小石川にいた伯父の斎藤漣方に寄宿。太平洋画塾に通い、画家を志す。暮、父より勘当される。p240
とある。つまり、1914年には、父親との関係が薄くなるわけだが、さて、この時点における今武平と「星の教団」との関係はどうなっていたのだろうか。
さて、当の今東光は、1940年(昭和15年)、今春聽の名前でリード・ピーターの「Man visible and invisible」を「神秘的人間像」として翻訳もしている。この本を読んでみたいと思ったが、現在のところ、公立図書館としては、国会図書館と、和歌山大学にしか保存されていない。しかも館外不出の扱いである。現在のところ現物を確認できない。
いまオレがコツコツ翻訳している名著がある。リード・ビーターの「ザ・マン・ビジブル・アンド・インビジブル」という本で、オレが大正時代から愛しているものだ。オレの邦題は「神秘的人間像」と決めた。「続 極道辻説法」p256
この部分はちょっと理解できない。「続 極道辻説法」は1977年にでた本である。にもかかわらず、今東光は「いまオレがコツコツ翻訳している」と言っているのは1977年のコラムの中である。ここから総合するに、今東光は1925年以前にリード・ビーターを愛読し始めているが、1940年に一度「神秘的人間像」というタイトルで出版はしたものの、1977年の晩年にあっても、翻訳を続けていた、ということになる。
昭和5年(1930)32歳。5月、東京・浅草寺伝法院で、大森亮順大僧正を戒師に出家。以後、昭和8年まで比叡山延暦寺に籠り、修行。p240
今東光は、天台宗に出家する直前に、出口王仁三郎に会っている(後日注・面談はしていないかもしれない)。王仁三郎が貧窮していた今東光に大金を送り、自らの元に呼び寄せ、自らの後継者にと目していた可能性がある。しかし、今東光は、すでに天台での出家を決意していたので、王仁三郎の申し出を受けることはなかった。
昭和3年(1928)に、王仁三郎は満56歳と7カ月を迎え、みろく大祭を挙行していた。みろく、つまりマイトレーヤだ。クリシュナムルティは、1929年8月2日、3,000人あまりの団員がいた自らの教団を解散し、自らがマイトレーヤの乗り物になることを拒否した。
もし、この時点で、今東光が、王仁三郎の申し出を受け、出口マイトレーヤの後継者として登場してくる可能性は、ゼロではなかったはずである。この辺の経緯は、当ブログ未読ではあるが、今東光「毒舌日本史」(春秋社1972)に、二人の交友が描かれているらしいので、後日それを参照してみよう。
ところで、今東光の母親はどんな人だったのだろう。
明治2年生まれのくせして、日本で最初のミッション・スクールを出て英語はペラペラ、スコットやラムを原書で読みとばしてるくらいだし、「平家物語」なんか初めから終わりまで全文、諳(そら)んじてやがる。おまけに、叔父さんが欧州大戦のときにヨーロッパへ行くのを送って、杜甫が戦陣を離れていたときにつくった七言絶句を詠むくらい、漢文の素養も凄かった。テレビのワイドショーでチョロチョロしてるそこらのインテリ奥様族とは、高級フランス菓子と駄菓子以上の差がありますよ。p148
なんにせよ、この辺あたりが、ひとつの手掛かりになって、当ブログの神智学探求の旅は始まるやも知れぬ。
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