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2010/06/02

精神的マスナヴィー<2>

<1>からつづく

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「アラビア・ペルシア集」世界文学大系〈第68〉
1964/08 筑摩書房 全集 442p

「精神的マスナヴィー」<2> ルーミー 蒲生礼一・訳

 「BIHL2」の7番目。そそっかしい私は、この寓話集を何かの長編のように読んでいた。途中まで読んでしまってから、それは可笑しいだろう、とようやく気がついた。これはショート・ショートなのだ。星新一なのに、小松左京の長編を読もうとしたようなことになって、なんだかヘンテコなことになってしまった。

 ことほど左様に、そもそも、この書の意味がよくわかっていなかった。どこにあって、どんな風に書いてあって、何がどうしたのか、ということをすこし、ゆっくり味わいながらでなければ、目を通したとしても、よく消化できないでしょう。

 全集の中にある三段組の印刷なので、文字も小さい。イラストもない。もし、これだけ抜き出して一冊の詩集のようなものになったなら、もっと、この書の持っている意味が生きてくるだろう。それは、ジブランの「預言者」とか、リチャード・バックの「かもめのジョナサン」のように、「親切」に盛り付けられた、とても素敵なご馳走になるに違いない。

 翻訳や語彙についても、アラビア・ペルシア文学については、すこしづつ慣れていく必要がある。グルジェフの「ベルゼバブの孫への話」にもよくでてくるムラ・ナスルディンも、「ナスレッディン・ホジャ物語」として一冊になっていると、私のようなせっかちな読み方では、せっかくの山海の珍味の妙が、分かるはずがない、というものである。

 「本」があるから「読書」が成り立つわけではない。そこには読む「人」がいなくてはならない。「人」とは、つまり私なのだ。本は本としてあっても、それをどのように読んで、褒めたたえるかは、こちらに掛かっている。世界各地のご馳走にありついたとしても、せっかちにテーブルについたのでは、一気に飲み込むことすらする前に、テーブルをひっくり返してしまい、皿はこわれ、せっかくのご馳走は地面に落ちて、泥棒ネコにでも持っていかれてしまうに違いない。

 すこしはテーブルマナーならぬ、読書マナーも学ばないといけない。そしてそれから、また、一個一個、このルーミーのマスナビー=寓話を味わうことにしよう。

つづく・・・・・

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