奇跡の探求(2)七身体の神秘<6>
「奇跡の探求(2)」 <6> 七身体の神秘
OSHO/OSHOサクシン瞑想センター 1998/03 市民出版社単行本 483p
☆☆☆☆★
下巻のちょうど中間あたりまで読んできて、さかんに睡魔に襲われる。ちょっと鼻がぐずつき気味だったので、飲んだ風邪薬が効いてきたのか、あるいは、この本の内容が、やたらと、黄泉の世界へ誘うのか、定かではない。
読みかけたこの本を胸においたまま、ウトウトしていると、あらぬ世界に入り込んでいる自分に気がつく。上巻はまぁいいだろう。問題は下巻だ。そして、本番はこれから。そして、ここだけを読みたいがために、この本の人気があることも知っている。
7つの身体については、A・E・パウエル「神智学大要」全5巻と突き合わせて見たいと思っていた。あるいは、そのために、この「奇蹟の探求」を引っ張りだしてきたのだった。そして、そこから一気に「シークレット・ドクトリン」にも手をかけようではないか。
7つの身体については、本文には何度も説明がある。それをリストアップすることも可能だが、敢えてそれはやめてきた。ひとつの文字列として風化してしまうことを怖れる。文字化することによって、さもそれを認知し、理解したかのような気分になってしまってはまずい。
さらに言えば、正直言って、この本の邦訳には、若干の翻訳としての甘さがある。誤字脱字のオンパレードの当ブログが、自分のことを棚に上げて言うべきことではないが、本書には多少の誤字脱字とともに、文脈がよく読みとれない部分がある。つまり、日本語としてよくこなれていない。
そして、さらにその上に、英語をカタカナにし、さらにはそれを漢字化している。とくに、この7つの身体に対する「漢字」化は、十分に注意したい。もちろん、それはOshoの意図したものではなく、英語ですら、もともと英語にない概念を、アバウトに当てはめてしまっているところがある。
もともとは古代インドから伝わってきた概念であろうし、さらに言えば、もともと言語化することさえもはばかれる次元のことなのである。それは語られるべきものではなく、体験されるもの、あるいはそうあるべきものとして、あるものなのである。
昼寝半分の読書ブログとして、当ブログは、不用意にそのような世界について、うっかりコメントを多く残すべきではないだろう。現代のインターネットにおける検索機能は素晴らしいものがある。情報だったり、知識だったり、とにかく文字化したり、具象化したりすることができるものについては、どこへでも飛んでいけるし、どこからでも飛んでくる。
しかしながら、ここからは、秘されてしかるべき世界、黙されてしかるべき世界、というものがある。あるいは秘され、黙されてこそ、ありうる世界、というものがある。だから、居眠りしながらの、のんびり読書は続けながらも、メモを残すのはほどほどにしていこうと思う。
ただ、今回、不本意ながらこの本を思い出したのは、どうしても神智学的流れを一度把握しておきたかったことと、これらの身体論とうまくバランスをとらないことには、当ブログでいうところのZENにも深みがでてこないのではないか、という懸念からであった。
神智学と言えど、別にその体系を「発明」したのではなく、ひとつの体系が「神智学」として表現され、表面化しただけなのであり、過去から未来への流れの中での、ひとつの表象として見て行くならば、意識の大海原を見渡す役には立ってくれるだろう。
うとうとしながら、そんなことを考えていた。
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